1995年に出版された数か月後、読売新聞の読書欄がこの本をとりあげた。丹藤佳紀記者による書評の冒頭はこうである。
「ベトナム戦争末期のサイゴンで、ある普通の市民の家に、戦争相手の北ベトナムの元首、ホー・チ・ミンの肖像画が飾られていて驚いたことがある。朝鮮戦争後の韓国の家庭で金日成(キムイルソン)主席のものなど絶えて見られなかったからだ」(読売新聞1996年3月24日)
ソウル特派員、サイゴン特派員を歴任したベテラン記者ならではの回顧だ。ブログ執筆者のベトナムへの関心も、いわば朝鮮半島経由である。朝鮮半島の歴史を理解する上で、ベトナムと比較すると見えてくるものがある。
その一環として、北ベトナムの指導者だったホー・チ・ミンの伝記を読んだ。
著者、古田元夫は、ベトナム戦争のころに大学時代を過ごした世代だ。ベトナム戦争から受けたインパクトは大きかったに違いない。だが、この本の良さは、ベトナム戦争に焦点をあてるのではなく、ホー・チ・ミンという指導者の生涯を、20世紀のベトナム、インドシナ、共産主義運動の歴史と関連づけながら記述した点にある。
ホー・チ・ミンは、ある意味では、「傷のついていない指導者」である。(5頁)ホー・チ・ミンが1930年に創設した共産党が今日のベトナム共産党である。フランスの植民地だったベトナムで、独立運動を指導した。フランスが手を引いた後も、ベトナム民族は北ベトナムと南ベトナムという二つの国家に分かれるという分断状態に置かれていた。アメリカが南ベトナムを支えていた。ホー・チ・ミンは戦争中の1969年に死去したが、北ベトナムは武力で統一を果たした。
ベトナム共産党は1991年に、党の思想的基盤として、マルクス・レーニン主義に加えて「ホー・チ・ミン思想」を党規約に明記した。市場経済をとりいれるドイモイ(刷新)政策を推進する党が、国家のまとまりを維持する上で、死せるホー・チ・ミンを必要としたのだ。
この思想を説明する上で、よく引用されるという ホー・チ・ミンの1947年の発言が興味深い。
孔子の学説は、個人の道徳の修養を重んずるという優れた点がある。ホー・チ・ミンは、自らが思想家であると規定したことはなかった。独立運動家であり、政治指導者として発言し、行動した。そもそも共産主義運動に加わったのも、レーニンの論文「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」(1920年7月16ー17日『ユマニテ』紙発表)に共鳴したからだ。ヨーロッパにしか適用されなかった民族自決の原則を普遍的なものとして、先進国プロレタリアートの革命闘争と被抑圧民族の解放運動の同盟を提唱した論文である。
イエス・キリストの宗教には、高い博愛心という優れた点がある。
マルクス主義には弁証法という優れた点がある。
孫逸仙(孫文ー訳注)の主義にはわが国の条件にも合う三民主義政策という優れた点がある。(10ー11頁)
(中略)
私も、これらの方々の小さな弟子となるように努力したい。
「民族の独立」こそがホー・チ・ミンが追求した目的だった。思想を論じる際にも、この目的を達成するために論じた。
1927年に発行されたパンフレット『革命の道』は、 「革命家の資格」という道徳論から始まる。古田氏が指摘するように、革命論が道徳論から始まるのは、いかにも「アジア的」である。たとえば、「慎重にして臆病にならず、よく質問する」といった徳目が説かれている。
ベトナムの歴史によって育まれてきた政治風土に根ざした言動こそが、ホー・チ・ミンが死後なお威光を保つ一因だろう。
ブログ執筆者の関心事である、北朝鮮との比較という観点から、付言する。
思想に着目する時、北朝鮮の国家主席だった金日成との対比は鮮明である。
金日成は、武力統一を目指した朝鮮戦争で挫折した後、国内で独裁体制を強化する過程で、「主体思想」なるイデオロギーを唱える。金日成の長男であり、後継者となった金正日が、「主体思想」を独裁体制の教条として変容させ、大いに利用した。
ホー・チ・ミンは、フランスによる植民地支配の終結、アメリカとの戦争での勝利(ホー・チ・ミン自身は勝利を見届けることができなかったが)という成果を残した。死後、その「思想」が整理され、尊重された。
金日成・金正日はそうした成果を挙げてはいない。「主体思想」は成果に裏打ちされていない。
最後に、ブログ執筆者が関心をもった箇所をもう一つ紹介しておく。民族がどのような植民地支配を経験したか、そして独立後にその経験を自民族の歴史の中でいかに位置付けたか。朝鮮半島とベトナムを比較する上で示唆的である。。
ホー・チ・ミンがベルサイユ講和会議に嘆願書を出した直後、フランスのインドシナ統治と日本の朝鮮統治を比較する発言や論文を残している。
ホーは、「日本帝国主義を擁護するという軽蔑すべき役割を果たすつもりはない」としながらも、「日本人は朝鮮人を完全に日本化しようとしている。これとは反対に、フランス国はアンナン人とフランス人の間の不平等を永遠に維持しようとしている」として、フランスの愚民政策を厳しく批判し、「フランスは、日本が朝鮮に対するような大胆さを、インドシナに対して示せるだろうか?」と指摘している。
当時、朝鮮において三・一独立運動の高揚を弾圧した日本は、一九一九年八月から、その統治政策を、いわゆる「武断統治」から「文化政治」に転換しようとしており、(中略)日本支配に抵触しない範囲で、言論、出版、集会、結社の自由を認める方向に政策を改めていた。(51頁)
▼著者略歴
1949年生まれ。ベトナム近現代史の研究者。東京大学大学院社会学研究科国際関係論専攻修了。
▼目次
第一章 ドイモイ時代のホー・チ・ミン
第二章 ホー・チ・ミンの旅
第三章 ホー・チ・ミンのナショナリズムと国際主義
第四章 政治指導者としてのホー・チ・ミン
第五章 ホーおじさんの栄光と限界
第六章 直弟子の「最後の闘争」