2019年3月2日土曜日

『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中公叢書、1967年)を巡って

◆有用性が証明された歴史観◆


▼梅棹忠夫の本は役に立つ

    国際情勢をよりよく理解したいと思ってこの何十年間、多くの本を読んできた。

    役立つ本はある。「役立つ」とはどういうことか。事実(ファクト)を伝える本はそれなりに役に立つ。たとえば「ベトナム戦争の歴史を知りたい」という目的があれば、それに合った本がある。

    より抽象的な理論を書いた本は役に立つか。これは要注意だ。現実に当てはまらない理論を読むのは、時間の無駄である。もしくは、その理論に影響されれば有害である。現実に起きていることを曲解することになる。理論を現実にあてはめて検証し、現実からのフィードバックで修正する不断の作業が必要である。

    知識とか理論といった範疇を超えて、ものの見方を高みに引き上げてくれる本がある。ブログ執筆者にとって、梅棹忠夫はそういう本を生み出した人だ。拙著『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点    ベルリンの壁からメキシコの壁へ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)では「慧眼の持ち主」と表現した。

   半世紀以上前に出版された代表作『文明の生態史観』を再読した。梅棹忠夫の思考の有用性は時間の経過の中で証明されたとあらためて思う。

▼『文明の生態史観』

 「梅棹忠夫の文明の生態史観」を語る時、論文と、論文が収められた単行本を区別する必要がある。

 このユニークな文明論が最初に世に問われたのは1957年のことだ。すなわち「文明の生態史観序説」のタイトルで月刊誌「中央公論」1957年2月に掲載された。梅棹自身によると「序説」というのは雑誌側がつけたのであり、本人は完結性をもった論文だという自負を持っていた。

 この論文は大きな反響を呼んだ。梅棹はこの論文を跳躍台として、多彩な論考を執筆する。

 1967年に出版された単行本『文明の生態史観』は、論文「文明の生態史観序説」を中核にして、その先駆となった56年発表の論文、そして57年以降の諸論考をまとめたものだ。

 以上の経緯から明らかなように、論文「文明の生態史観序説」が核心をなしている。

 この本から重要な箇所を引用する。

「いままでのかんがえ方は、みんな文化の由来をもって日本の位置表示をおこなおうとしていた。(中略)わたしはここで、文化の機能論的な見方をみちびきいれたほうが、はなしが、いっそうはっきりするとおもう。それぞれの文化要素が、どのようにくみあわさり、どのようにはたらいているか、ということである」

 梅棹はここで「系譜論」から「機能論」への発想の転換を提唱している。彼自身の例えによれば、建築について、個々の材木が吉野杉であるか米松であるかをいうのが系譜論だ。機能論は、その建築が住宅であるのか学校であるのかを語る。

 現代日本の文化は、全体としてどういうデザインで設計されているのか。それは「高度の文明生活」、換言すれば「近代文明」だという。

「いちいち文明の特徴をあげるまでもないが、たとえば、巨大な工業力である。それから、全国にはりめぐらされたぼう大な交通通信網。完備した行政組織、教育制度。教育の普及、豊富な物資、生活水準の高さ。たかい平均年齢、ひくい死亡率。発達した学問、芸術。」

 日本は高度な文明国だという点を確認した上で、梅棹は「旧世界」(アジア、ヨーロッパおよび北アフリカ)を腑分けする。高度文明国になったのは、日本と、地理的には反対側にある西ヨーロッパの数か国だけだ。

 「旧世界を、ばっさり二つの地域にわけよう。それぞれを、第一地域、第二地域と名づけよう。(中略)第一地域の特徴は、その生活様式が高度の近代文明であることであり、第二地域の特徴は、そうでないことである」(82ー83頁)

 日本とヨーロッパは、いずれも第一地域である。

「わたしは、明治維新以来の日本の近代文明と、西欧近代文明との関係を、一種の平行進化とみている」(83頁)

 第二地域が遅れた地域で、第一地域が進んだ地域だと言うと、誤解を招く。そうした言い方だと、第二地域も時間が経てば第一地域の仲間入りすることになる。

 そうではない。なぜか。

 「わたしはつまり、第一地域と第二地域とでは、もともと、社会の構造がかなりちがうのだとかんがえている」(87頁)

 第一地域では、封建体制の中でブルジョアが育ち、革命によってブルジョアが実質的な支配権を握った。

「つまり第一地域というのは、封建体制のあった地域なのだ」(87頁)

 こうした世界観の下敷きとなっている理論のモデルとなっているのが「生態学理論」だ。生態学でいう「遷移(サクセッション)」の考え方を適用して、人間の共同体の生活様式の変化をとらえるのである。

 植物であれ、人間であれ、共同体の変化は次のように把握できる。

「一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する」(92頁)

 生態学は、主体と環境を一体のものとして観察する。

「要するに、サクセションという現象がおこるのは、主体と環境との相互作用の結果がつもりつもって、まえの生活様式ではおさまりきれなくなって、つぎの生活様式にうつるという現象である」(93頁)

 第一地域で、高度な文明までサクセションが進行できたのは、環境に恵まれていたからだ。

「そこは、めぐまれた地域だった。中緯度温帯。適度の雨量。たかい土地の生産力。(中略)何よりも、ここははしっこだった。中央アジア的暴力が、ここまでおよぶことはなかった」(96頁)

 第二地域では、第一地域のようなサクセションが起きなかった。ユーラシア大陸を東北から西南に斜めに横断する乾燥地帯の存在が大きい。

「乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯のまん中からあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのだろうか」(95頁)

「遊牧民はその破壊力の主流であり、そのお手本を提供したけれど、破壊力をふるうのは遊牧民とはかぎらない。そののち、乾燥地帯をめぐる文明社会そのものの中からも、猛烈な暴力が発生するにいたる」(95頁)

「第二地域の歴史は、だいたいにおいて、破壊と制服の歴史である」(95頁)

▼梅棹忠夫のすごさ

 梅棹は、上記の論文で近代における日本の文明と西欧の文明の間に「平行進化」を見出した。
 
 植物のサクセションに関する理論を、人間集団の生活様式の変化にあてはめた。
ブログ執筆者が考えるに、この二つの例が示すのは、梅棹の「結びつける」能力のすごさだ。既存の特定の学問の枠組みにこもっていないのである。

 見落としてはならないのは、梅棹が豊富なフィールドワークを行なっていたことだ。彼のユニークな思想は、けっして研究室の中で生まれたものではない。

▼生態史観の21世紀における意義

 梅棹が第一地域の特徴としてあげた高度な文明は、21世紀においては中国も達成しようとしているのではないか。

 表面的にはそう見える。だが、21世紀中国の文明はやはり第二地域の特色を持っている。そうした視角でとらえることが有効だと思う。第二地域のサクセションの一段階なのだ。

▼個人的な追記

 『文明の生態史観はいま』(梅棹忠夫編、中公叢書、2001年)で、梅棹が書いた次のくだりを読んだ時、心中で「ああ、そうだったのか」という感慨にとらわれた。

「わたしの著書『文明の生態史観』が刊行されてから約10年たった一九七八年に、月刊誌『現代の眼』の四月号に「生態史観と唯物史観」という論文が掲載された。著者は廣松渉氏である。廣松氏はマルクス主義哲学者としてひろく名をしられたひとで(以下略)」

「一九八七年二月二七日、廣松氏は夫人とともに国立民族学博物館にわたしをたずねてこられた。わたしたちは初対面であったが、食事をともにしながらおおいに歓談した。ふたりは学説をことにするとはいえ、一〇年の知己のようにたのしくかたりあった。廣松氏はまことにまじめな気もちのよい紳士であった」

 ブログ執筆者は大学当時、廣松渉先生の謦咳に接した。廣松先生が大教室で行った哲学概論の授業で、梅棹忠夫の生態史観に言及したことは記憶している。この二人にその後、こういう出会いがあったとは。


単行本『文明の生態史観』目次

東と西の間
東の文化・西の文化
文明の生態史観(雑誌掲載時の原題は「文明の生態史観序説」)
新文明世界地図―比較文明論へのさぐり
生態史観から見た日本
東南アジアの旅から―文明の生態史観・つづき
アラブ民族の命運
東南アジアのインド
「中洋」の国ぐに
タイからネパールまで―学問・芸術・宗教
比較宗教論への方法論的おぼえがき


梅棹忠夫について(2001年刊行の『文明の生態史観はいま』を参照した)

1920年京都市に生まれる。京都大学理学部卒。京都大学人文科学研究所教授、
国立民族学館長などを歴任。専攻は民族学、比較文明論。著書は、『文明の生態史観』『知的生産の技術』など多数。