2019年9月25日水曜日

『アメリカの恩寵 宗教は社会をいかに分かち、結びつけるのか』(ロバート・D・パットナム、デヴィッド・E・キャンベル、柴内康文訳、柏書房、2019年)

◆アメリカ人にとって宗教はかくも重大事なのだ◆
「訳者あとがき」は、原著が2010年に刊行された際、「インスタント・クラシック(公刊時点で名作)」という評価が与えられた、と紹介している。もっともだと思う。今後、アメリカ社会と宗教を語る上で必読書だ。



 世論調査・アンケート調査の数字を駆使して、慎重に分析している。それがこの本を貫く学問的な姿勢と言える。「挿話」と題された複数の章では、筆者たちが宗教の現場を訪れて拾った信者の声が記述されている。並のジャーナリズムを凌駕するほど生き生きしている。それぞれの宗教・宗派の雰囲気が伝わってくる。

アメリカにおける宗教に関する議論は全て、アメリカ人が強く宗教的な人々であるという疑問の余地ない事実からはじめなければならない(p13)

 ある人が宗教・信仰について聞かれて、「特定の宗教・宗派に属している・いない」と答えることと、「神を信じている・いない」ということは、区別しなければならない。この本から学んだことだ。アメリカに「無神論」「不可知論者」はほとんどいない。2011年の調査では、自分がスピリチュアルであると考える人は75%にのぼる(p548)。

 アメリカの今日における宗教と政治の関わり合いを整理する上で、役に立つのは、第2次世界大戦後に起きた「三度の地殻変動」という節目を捉え方だ。

 まず、「性的解放の1960年代」に、性にまつわる倫理観が大きく変わる。それまで宗教的観点からよくないとされていた婚前交渉を認める人が増えた。

 60年代の性的解放への反動が、二つ目の地殻変動、すなわち保守的宗教、特に福音主義派の成長を引き起こした。福音派信者の増加は1970年代に始まり90年代初頭に終わった。しかし、保守的な信者であり、かつ政治への積極 的に参加した宗教右派は、時間差をもって21世紀のアメリカ政治で強い影響力を持つようになる。

 宗教右派の影響力拡大への反発から、若者が、次第に宗派に属することを拒否するようになる。これが三つ目の地殻変動だ。

 同性婚と妊娠中絶が、米国世論を二分する問題であることはよく知られている。いずれも宗教がからむ問題だ。

 その長期的なトレンドが対照的であることは興味深い。同性婚への支持は上昇している。他方、妊娠中絶の自由への支持は下降している。

 なぜ妊娠中絶への支持が低下しているのか。著者は、学問的良心から「直感」だと断りつつ、子宮内超音波画像の普及が影響しているのではないか、と書いている。

▼著者について
ロバート・D・パットナム、デヴィッド・E・キャンベル 1940年生まれの政治学者。メソジストとして育てられ、結婚に際してユダヤ教に改宗した。
デヴィッド・E・キャンベル   1971年生まれの政治学者。末日聖徒イエス・キリスト教会教徒(モルモン教徒)

▼目次
第1章 アメリカにおける宗教的分極化と多様性
第2章 挿話――古きものと新しきもの
第3章 アメリカの宗教性――歴史的背景
第4章 アメリカの宗教性――激震と二つの余震
第5章 切り替え・整合・混合
第6章 宗教におけるイノベーション
第7章 挿話――エスニシティ、ジェンダーと宗教
第8章 女性革命、不平等の増大と宗教
第9章 多様性、エスニシティと宗教
第10章 挿話――いかに宗教と政治が結びつくのか
第11章 アメリカ政治における宗教
第12章 エコー・チェンバー――会衆内部での政治
第13章 宗教とよき隣人性
第14章 分断された家?
第15章 アメリカの恩寵――寛容な国家がいかにその宗教的分断を橋渡しするか
エピローグ
謝辞
補遺1 信仰重要性調査
補遺2 データ分析
訳者あとがき/原注/索引

▼原著
Robert D. Putnam and David E. Campbell,  American Grace: How Religion Divides and Unites Us, New York: Simon and Schuster, 2010

◾️補記 マイク・ペンス副大統領
 以下はブログ執筆者による個人的見解だ。

 この本が提示してくれる宗教と社会・政治に関する見取り図の中にあてはめると、例えば、マイク・ペンス副大統領という政治家がよりよく理解できる。

 1959年生まれのペンスは、カトッリックの家庭に育ち、大学時代に「ボーン・アゲイン」を体験した。政治家になってからは、福音主義派を支持基盤としている。トランプ政権の中で、抜きん出て宗教色が強い。

 ペンスは、同性愛者への差別を助長する側に立っている、という批判に反論する。「プロライフ(妊娠中絶反対)」という主張は、あらゆる機会を捉えて発信する。上記にあげた長期的なトレンドの中で、合理的な行動をしていると言える。

2019年8月17日土曜日

書評 『ホー・チ・ミン』(古田元夫、岩波、1995年)

◆金日成と比較したい◆ 

 1995年に出版された数か月後、読売新聞の読書欄がこの本をとりあげた。丹藤佳紀記者による書評の冒頭はこうである。

「ベトナム戦争末期のサイゴンで、ある普通の市民の家に、戦争相手の北ベトナムの元首、ホー・チ・ミンの肖像画が飾られていて驚いたことがある。朝鮮戦争後の韓国の家庭で金日成(キムイルソン)主席のものなど絶えて見られなかったからだ」(読売新聞1996年3月24日)

    ソウル特派員、サイゴン特派員を歴任したベテラン記者ならではの回顧だ。ブログ執筆者のベトナムへの関心も、いわば朝鮮半島経由である。朝鮮半島の歴史を理解する上で、ベトナムと比較すると見えてくるものがある。

    その一環として、北ベトナムの指導者だったホー・チ・ミンの伝記を読んだ。

   著者、古田元夫は、ベトナム戦争のころに大学時代を過ごした世代だ。ベトナム戦争から受けたインパクトは大きかったに違いない。だが、この本の良さは、ベトナム戦争に焦点をあてるのではなく、ホー・チ・ミンという指導者の生涯を、20世紀のベトナム、インドシナ、共産主義運動の歴史と関連づけながら記述した点にある。

 ホー・チ・ミンは、ある意味では、「傷のついていない指導者」である。(5頁)
ホー・チ・ミンが1930年に創設した共産党が今日のベトナム共産党である。フランスの植民地だったベトナムで、独立運動を指導した。フランスが手を引いた後も、ベトナム民族は北ベトナムと南ベトナムという二つの国家に分かれるという分断状態に置かれていた。アメリカが南ベトナムを支えていた。ホー・チ・ミンは戦争中の1969年に死去したが、北ベトナムは武力で統一を果たした。

    ベトナム共産党は1991年に、党の思想的基盤として、マルクス・レーニン主義に加えて「ホー・チ・ミン思想」を党規約に明記した。市場経済をとりいれるドイモイ(刷新)政策を推進する党が、国家のまとまりを維持する上で、死せるホー・チ・ミンを必要としたのだ。

 この思想を説明する上で、よく引用されるという   ホー・チ・ミンの1947年の発言が興味深い。

孔子の学説は、個人の道徳の修養を重んずるという優れた点がある。
イエス・キリストの宗教には、高い博愛心という優れた点がある。
マルクス主義には弁証法という優れた点がある。
孫逸仙(孫文ー訳注)の主義にはわが国の条件にも合う三民主義政策という優れた点がある。(10ー11頁)
(中略)
私も、これらの方々の小さな弟子となるように努力したい。
ホー・チ・ミンは、自らが思想家であると規定したことはなかった。独立運動家であり、政治指導者として発言し、行動した。そもそも共産主義運動に加わったのも、レーニンの論文「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」(1920年7月16ー17日『ユマニテ』紙発表)に共鳴したからだ。ヨーロッパにしか適用されなかった民族自決の原則を普遍的なものとして、先進国プロレタリアートの革命闘争と被抑圧民族の解放運動の同盟を提唱した論文である。

 「民族の独立」こそがホー・チ・ミンが追求した目的だった。思想を論じる際にも、この目的を達成するために論じた。

 1927年に発行されたパンフレット『革命の道』は、  「革命家の資格」という道徳論から始まる。古田氏が指摘するように、革命論が道徳論から始まるのは、いかにも「アジア的」である。たとえば、「慎重にして臆病にならず、よく質問する」といった徳目が説かれている。

  ベトナムの歴史によって育まれてきた政治風土に根ざした言動こそが、ホー・チ・ミンが死後なお威光を保つ一因だろう。

 ブログ執筆者の関心事である、北朝鮮との比較という観点から、付言する。

    思想に着目する時、北朝鮮の国家主席だった金日成との対比は鮮明である。
 金日成は、武力統一を目指した朝鮮戦争で挫折した後、国内で独裁体制を強化する過程で、「主体思想」なるイデオロギーを唱える。金日成の長男であり、後継者となった金正日が、「主体思想」を独裁体制の教条として変容させ、大いに利用した。

  ホー・チ・ミンは、フランスによる植民地支配の終結、アメリカとの戦争での勝利(ホー・チ・ミン自身は勝利を見届けることができなかったが)という成果を残した。死後、その「思想」が整理され、尊重された。

 金日成・金正日はそうした成果を挙げてはいない。「主体思想」は成果に裏打ちされていない。
 
  最後に、ブログ執筆者が関心をもった箇所をもう一つ紹介しておく。民族がどのような植民地支配を経験したか、そして独立後にその経験を自民族の歴史の中でいかに位置付けたか。朝鮮半島とベトナムを比較する上で示唆的である。。
    ホー・チ・ミンがベルサイユ講和会議に嘆願書を出した直後、フランスのインドシナ統治と日本の朝鮮統治を比較する発言や論文を残している。

ホーは、「日本帝国主義を擁護するという軽蔑すべき役割を果たすつもりはない」としながらも、「日本人は朝鮮人を完全に日本化しようとしている。これとは反対に、フランス国はアンナン人とフランス人の間の不平等を永遠に維持しようとしている」として、フランスの愚民政策を厳しく批判し、「フランスは、日本が朝鮮に対するような大胆さを、インドシナに対して示せるだろうか?」と指摘している。
 当時、朝鮮において三・一独立運動の高揚を弾圧した日本は、一九一九年八月から、その統治政策を、いわゆる「武断統治」から「文化政治」に転換しようとしており、(中略)日本支配に抵触しない範囲で、言論、出版、集会、結社の自由を認める方向に政策を改めていた。(51頁)

▼著者略歴
1949年生まれ。ベトナム近現代史の研究者。東京大学大学院社会学研究科国際関係論専攻修了。

▼目次
第一章    ドイモイ時代のホー・チ・ミン
第二章    ホー・チ・ミンの旅
第三章    ホー・チ・ミンのナショナリズムと国際主義
第四章    政治指導者としてのホー・チ・ミン
第五章    ホーおじさんの栄光と限界
第六章    直弟子の「最後の闘争」




2019年5月22日水曜日

書評 『ユダヤ人とユダヤ教』(市川裕、岩波新書、2019年)

◆「ユダヤ」の本流を描く◆


 読むことによって、自分がユダヤ人について持っていた断片的な知識や経験が核を得て、一つにまとまっていく。それほどの力を持った本だった。

 ブログ執筆者は、記者としてドイツ報道に携わった。ドイツのニュースを扱う上で、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺「ホロコースト」は避けて通れない。だから、ユダヤ人に関連した書籍も読んでいた。

 また、中東報道にも参加したことがあり、1990年代初頭には短期間ながらイスラエルに出張した。ユダヤ人がいかにしてイスラエルを建国したかについても勉強した。

 この本を読んで痛感した。「ホロコースト」、そしてイスラエルという国家の建設について知ることは、ユダヤ人を語る上で欠かせない。いずれも20世紀の大事件だ。しかし、それだけではユダヤ人を知ったことにはならないのだ。ユダヤ人の歴史は長く、多様である。

 全189ページの新書である。決して大冊ではない。章ごとに「歴史」「信仰」「学問」「社会」という4つの視点から、ユダヤ人とユダヤ教を解説している。

■中世のユダヤ人について学べる

 ブログ執筆者があらたな知識として習得したのは中世におけるユダヤ人に関する部分だ。

中世においてユダヤ人はイスラム世界に組み込まれることで、バビロニアを中心にユダヤ史のなかでも類をみない繁栄を享受することになる(15ページ)

ユダヤ教とイスラム教はともに中東を発祥の地とする宗教で、唯一神とその預言者を信仰する宗教共同体として独特な宗教集団を形成した(17ページ)

 ユダヤ教とイスラム教は単に中世において共存しただけでなく、重要な共通性があると気づいた。次のくだりを読んでである。

ユダヤ教の世界はキリスト教の世界とは異なり、「宗教」から切り離された世俗法の領域は存在しない(55ページ)

 著者市川裕さんは、「ラビ・ユダヤ教」という概念の重要性を強調する。「ラビと総称される律法学者によって構想され組織化されたユダヤ共同体の思想と実践」を指すという。(58ページ)

 「実践」という単語に意味がある。著者の視線はユダヤ人がいかに生きていたか、に向けられる。

 その「生きる」には「学ぶ」も含まれる。律法(唯一神の意志)の学習を「タルムード」と呼ぶ。学習はもともと口伝だったが、様々な書物が編纂されていく。最も重視される「バビロニア・タルムード」は西暦500年頃に成立した。

 「タルムード」を巡る記述はこの本の中の白眉と言えるだろう。書物としての「タルムード」には、あるラビの主張のあとには、別のラビによる違う主張が置かれている。学習は「かつてのラビたちがあたかも時空を超えて議論しているのを聴くかのように進められる」(108ー109ページ)。

■近代の「国民国家」の衝撃について考えさせられた

 18世紀後半のフランス革命と19世紀初頭のナポレオンの支配を経て、欧州は「国民国家」の時代に入る。(学生のみなさんへの注。「国民国家」については、森千春著『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点』23ー24ページに説明があります)

  近代におけるユダヤ人は「国民国家」の衝撃を受けて、独特の軌跡を描いた。ユダヤ人であることの意味合いが複雑化したとも言える。

 「国民国家」の形成は、その国に住むユダヤ人にとって、信教の自由と国民の一員としての地位を得たことを意味する。国民の一員であることは、国家に対してたとえば兵役などの義務を負うことでもある。住んでいる国家に忠誠を誓うとともに、ユダヤ教を信奉するという生き方が生まれた。

 別の道を志向する勢力もあった。ユダヤ人も民族として国家を持つべきだという運動である。

 著者の表現を引用すれば、「宗教としてのユダヤ」「民族としてのユダヤ」という二つの定義が並存するようになったのだ。

 民族として国家を持つという運動が20世紀に結実したのがイスラエル建国である。

 ユダヤ人は西欧では国民国家の一員となったのだが、その道のりは平坦ではなかった。著者は、本文の終わり近くに、感情をにじませた文を置いている。

一九世紀以降のヨーロッパでは、いわゆる反ユダヤ主義のもと、社会差別から始まり、法的差別、物理的迫害、さらには物理的抹殺へとエスカレートしていった。一度は迎え入れたユダヤ人を、近代国家は棄民としたのである(170ページ)

 ブログ執筆者は実に多くを学んだ。ただ、難解で理解しきれない箇所もあった。ユダヤ教の祈りに関するかしょなどだ。また、復活信仰がどこから生まれてきたのか、という疑問も残った。この本は、ユダヤ人とユダヤ教に関心を持つ人にとっては必読書と言える。しかし、一冊読めば分かるというほど、ユダヤは簡単ではない、ということだろう。

▼著者略歴(『ユダヤ人とユダヤ教』より)
1953年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は宗教史学、ユダヤ思想。著書に『ユダヤ教の歴史』『ユダヤ教の精神構造』。


▼目次

序章  ユダヤ人とは誰か

第1章  歴史から見る

第1節 古代のユダヤ人たち
第2節 イスラム世界からヨーロッパへ ほか
第3節 国民国家の中で

第2章  信仰から見る

第1節 ラビ・ユダヤ教
第2節 ユダヤ教の根本原則
第3節 神の時間秩序
第4節 「宗教」としてのユダヤ教

第3章 学問から見る

第1節 タルムードの学問
第2節 論争と対話
第3節 ユダヤ哲学
第4節 ユダヤ精神の探求

第4章  社会から見る

第1節 ユダヤ人の経済活動
第2節 ユダヤ人の人生の目標
第3節 近代メシア論
第4節 ユダヤ社会の現実

文献解題

あとがき



2019年3月16日土曜日

『世界史の誕生【モンゴルの発展と伝統】』(岡田英弘、ちくま文庫、1999年)について

◆「中国の歴史」の重さを相対化する◆


   今日の国際情勢を理解するために中国の歴史を勉強しなくてはならないーブログ執筆者が抱えてきた長年の強迫観念だった。

   それ自体は間違っていないと今でも思う。だが、以前持っていた「中国の歴史」についての思い込みは、岡田英弘によるこの本を読んで大きく修正された。「目から鱗が落ちる」とはこのことかと感じた。

    ずっしりとした重みを感じていた「中国の歴史」のイメージとはどのようなものだったか。岡田英弘の表現を借りれば「『正統』の皇帝中心の不変の世界の叙述」(109頁)である。中国というスペースがあって、そこで王朝が興亡を繰り返す。漢、隋、唐、明はおなじみだ。元はモンゴル族、清は満州族という異民族が支配した王朝だった。3世紀の三国鼎立といったややこしい時代もあった・・・

   この本は二重の意味で、こうした思い込みを打ち砕く。一つには中央ユーラシア高原に視点を置いたスケールの大きな叙述を通じて中国の歴史を相対化する。モンゴルが主役である。もう一つは、歴史とは何かを論じることによって、世間に流通する中国史の枠組みの限界を示す

   この本はいわば、〈モンゴル話〉と〈歴史談義〉という二つの柱からなっている。
出だしが強烈だ。「一二〇六年の春、モンゴル高原の片隅に遊牧民が集まって、チンギス・ハーンを自分たちの最高指導者に選挙したという事件」を描写して、次のように断じるのだ。

この事件は、世界史のなかで最大の事件であった。つまりこの事件が、世界史の始まりだったのである。(31頁)

   第4章から6章まで、中央ユーラシア高原を舞台としている。その中から〈モンゴル話〉の重要な主張が浮かび上がってくる。

中央ユーラシア草原では、六世紀以来、一連の遊牧帝国の系列が成長を続けて来て、とうとう十三世紀に至って、隋・唐の系列の中国のなごりを、完全に呑み込んでしまった(118頁)
元朝は、東アジアの多くの地域を統合した大帝国だったが、一番重要な地域はもちろんモンゴル高原で、中国は元朝の植民地の一つに過ぎなかった(119-120頁)
北の帝国の優勢は時とともに大きくなり、最後にモンゴル帝国が中国全体を呑みこんでしまう(184頁)

   中央ユーラシア高原が中国文明に与えた影響という観点は、このブログでもとりあげた梅棹忠夫の『文明の生態史観』と共通する。

   〈歴史談義〉の方もスケールが大きい。

   まず「歴史」が定義される。
歴史は単なる過去の記録ではない。
歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。(32頁)
   そして、時空を眺め回したかのように、こう告げる。
歴史のある文明よりも、歴史のない文明の方が、はるかに数が多い。
世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の二つだけである。(39頁)
地中海文明の「歴史の父」は、前五世紀のギリシャ人、ヘーロドトスである。(52頁)
ヘーロドトスが(中略)打ち出している見方は、世界はヨーロッパとアジアの二つにはっきり分かれ、ヨーロッパはアジアと、大昔から対立、抗争して来たものだ、という主張である(62頁)

   岡田英弘の筆はキリスト教の歴史観にも及ぶ。特に重視するのは、新訳聖書の最後に置かれる「ヨハネの黙示録」である

ヘーロドトスの対決の歴史観と、キリスト教の歴史観とは、きわめて重要な点で一致していた。それは、「ヨハネの黙示録」の、世界は善の原理と悪の原理の戦場である、という二元論である。(77-78頁)
   明治以降、西洋の学問の吸収に努めてきた日本では、歴史学においても西洋流が根を張っている。岡田英弘はだからこそ、まず西洋の歴史の原点であるヘーロドトスから〈歴史談義〉を始めたのだろう。

   西洋流の歴史観を切った上で、もう一方の中国流の歴史観に刃を向ける。

中国文明の「歴史の父」は、地中海世界のヘロードトスより三世紀半ほどの後の、前一〇〇年前後に『史記』を著した司馬遷である。(82頁)

   司馬遷を元祖とする中国の歴史記述の核心はどう表現されるか。

皇帝が統治する範囲が「天下」すなわち世界であり、「天下」だけが歴史の対象である。中国文明の歴史は、皇帝の歴史であり、永久に変わることのない「正統」の歴史である。(101頁)

   唐以降の中国で歴史記述の担い手となったのは、官僚登用制度、科挙の合格者だった。科挙のテキストは儒教である。それが故に、唐以後の「正史」には軍事面が軽視されるという欠点がある。

   〈歴史談義〉の本筋とは言えないが、韓国をウォッチしてきたブログ執筆者にとっては、朝鮮に決定的な影響を与えた朱子学についてのくだりも印象的だった。

道教は、仏教と儒教の教義を総合して、大きな体系を作り上げたが、それをそっくり借りて、術語だけを儒教の教典の熟字で置き換えたものが、宋代に興った新儒学、いわゆる宋学である。宋学を大成したのが、南宋時代に生きた朱熹(一一三〇~一二〇〇)であった。(228頁)

   ブログ執筆者は、朝鮮が封建制を経ていないことが現代の韓国、北朝鮮のお国柄に反映していると考えている。朝鮮半島にも封建制があったという言い方を見かけると首を傾げてきた。だから、岡田英弘が「封建」という用語を巡る混乱を指摘していたのは役に立った。

中国史の「封建」は、武装移民が新しい土地を占領して都市を建設することを意味する。それに対してヨーロッパ史の「フューダリズム」は、騎士が、一人または複数の君主と契約を結び、所領(フュード)の一部を手数料(フィー)として献上して、その見返りに保護を受けることを意味する。(257頁)

   以上、常識を突き崩す突破力を持った、岡田英弘の所論を紹介してきた。その語り口には天才に特有のきらめきがある。
と評価した上で、思わず「これははずしたな」と苦笑したかしょもあった。
社会主義が過ぎ去った後のロシアと中国では、資本主義はまず成功しないであろう(248頁)
   ロシアはさておいて、中国の膨張ぶりを目の当たりにする我々は、中国流の市場経済の成功を認めざるを得ない。

   岡田英弘自身、この本の中で「およそ学問というものは、未来の予知を究極の目的とする」(104頁)と述べている。歴史学も例外ではないのだ。先見というものは難しい。だが取り組まなくてはならない、と思う。


▼岡田英弘について(『世界史の誕生』著者略歴、読売新聞の記事などを参照)

歴史学者。1931年、東京に生まれる。2017年、死去。東京大学文学部東洋史学科を卒業。東京外語大学教授を務める。中国語、満州語、モンゴル語の知識を駆使し、独自の歴史観を提唱した。全8巻の著作集が藤原書店から刊行された。

▼『世界史の誕生』目次

第1章 1206年の天命―世界史ここに始まる
第2章 対決の歴史―地中海文明の歴史文化
第3章 皇帝の歴史―中国文明の歴史文化
第4章 世界史を創る草原の民
第5章 遊牧帝国の成長―トルコからキタイまで
第6章 モンゴル帝国は世界を創る
第7章 東洋史・西洋史から世界史へ


 

2019年3月9日土曜日

書評 『二つのコリア [第三版] 国際政治の中の朝鮮半島』(ドン・オーバードーファー、ロバート・カーリン、菱木一美訳、共同通信社、2015年)

◆韓国、北朝鮮と国際政治◆


 朝鮮半島情勢をウォッチしながら、幾度この本を読み返したことだろう。最新のできごとを国際政治の長期的動向の中に位置づけるのに、役に立つ本だ。

 題名の通り、韓国と北朝鮮の二つの朝鮮民族国家を扱う。それぞれの建国以来の政治の変動と、アメリカ、中国、ロシア、日本などが織りなす国際関係との間の相互作用が描かれる。

 初版から第三版までの変遷(この稿の末尾にまとめておく)はあるが、もっとも入手しやすい第三版に基づいて論じる。大きく分ければ、前半は建国期から東西冷戦終結までで、後半は北朝鮮の核開発が中心テーマだと言える。

 今日、朝鮮半島が注目されるのはもちろん、北朝鮮の核・ミサイル問題のためである。2017年にはアメリカと北朝鮮の間で軍事的緊張が高まった。過去の緊張の例を参考にしたい。それでこの本をひもといた。

 1994年の状況について、こんなくだりがある。

 1994年5月19日、ペリー国防長官、シャリカシュビリ統合参謀本部議長、ラック在韓米軍司令官がホワイトハウスで、クリントン大統領に説明した。「朝鮮半島で戦争が勃発すれば、最初の九十日間で米軍兵士の死傷者が五万二千人、韓国軍の死傷者が四十九万人に上る」(323頁)

 ああそうだったのか、と思った。この本はこんな風に役に立つのだ。

 2018年に北朝鮮の金正恩政権は対話攻勢に出た。朝鮮労働党の金正恩委員長の行動からは、祖父の金日成主席をロール・モデルとしているふしがうかがえる。それでこの本の前半を、金日成に注目しながら読み返した。

 1977年12月に金日成は、東ドイツの社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長の訪問を受けた。

 東ドイツ公文書館に保存されていた会談記録に残されていた金日成の発言が興味深い。金日成の韓国観を知る手がかりとなる。

彼は自分の国が多くは『米帝国主義』のためにさまざまな困難に直面していると認めながらも、自分の立場と主体(チュチェ)思想の優位性に絶大な自身を持っていた(112頁)
金日成は、最優先事項は国の統一であると強調した(112頁)

 トランプ米大統領が、在韓米軍を縮小したり、撤退させるのではないかと取り沙汰されてている。

 この問題との関連では、第4章「カーターの戦慄」が参考になる。ベトナム戦争終結後の1976年の米大統領選で当選したカーターが、真剣に在韓米軍撤退を志向していたことが分かる。米政府の幹部たちが多大な努力をして在韓米軍を維持する方向に政策をもっていった。

 著者ドン・オーバードーファーは、ベテラン記者である。朴正煕大統領から始まり、歴代韓国大統領にインタビューしている。北朝鮮を複数回、訪問したこともある。

 米有力紙の記者として歴々たるキャリアの持ち主だ。

 それでいて、謙虚さを備えている。  日本語版への序文で書いている。「北朝鮮について私には不明の部分があることを肝に銘じている」(19頁)

 ブログ執筆者は1998年、韓国の金大中大統領の訪米をカバーするためにワシントンに出張した。朝鮮半島情勢について意見を聞こうとオーバードーファー氏に会った。初対面である。

 オーバードーファー氏はこう切り出した。”How can I help you?”。親切な人だった。


▼『二つのコリア』第3版目次

第1章 野鳥さえずる非武装地帯
第2章 始まりの終わり
第3章 深まる苦悩
第4章 カーターの戦慄
第5章 暗殺とその余波
第6章 テロと対話
第7章 ソウルの民主化闘争
第8章 ソウル五輪、国際社会へのデビュー
第9章 モスクワの変心
第10章 立場を変えた中国
第11章 核問題への関与
第12章 脱退と関与
第13章 核兵器をめぐる対決
第14章 死去と合意
第15章 危機の北朝鮮
第16章 関与政策への転換
第17章 米朝枠組み合意の終焉
第18章 混迷の米韓同盟
第19章 裸の王様

▼著者略歴(『二つのコリア第三版』を参照して作成)

ドン・オーバードーファー (Don Oberdorfer)

 1968年から米紙ワシントン・ポストでホワイトハウスを担当した後、外交専門記者。72ー75年、北東アジア特派員として東京に駐在し、朝鮮半島情勢を取材。93年に退職後、ジョンズ・ホプキンス大学ポール・ニッツ高等国際問題研究大学院(SAIS)の特任研究員、後に特任教授。2015年死去。

ロバート・カーリン (Robert Carlin)

 1971年ー88年、米中央情報局(CIA)分析官。1989-2002年、国務省情報調査局北東アジア部長。1992年から2001年まで米朝交渉に携わった。2002年、朝鮮半島エネルギー開発機構 (KEDO) 事務局長の政治担当首席補佐官に就任。2006年からスタンフォード大学国際安全保障協力センター (CISAC) 客員研究員。

▼本の成り立ちについて(『二つのコリア 第三版』訳者あとがきによる)

 原本は、ドン・オーバードーファーの単著で、1997年に出版されたThe Two Koreas: A Contemporary Historyである。邦訳は1998年に出版された。

 2001年に、原本に新たな章(第16章)を追加した改訂版が出版された。この邦訳は『二つのコリア 特別最新版』だ。

 その後、オーバードーファーの依頼により、ロバート・カーリンが共著者として参画し、第17章~第19章を増補した。オリジナルの部分にも改訂が加えられた。こうしてできた改訂増補版が2014年に出版された。2015年には邦訳『二つのコリア 第三版』が刊行された。

 ブログ執筆者が読んだのは、1998年と2015年の2種の邦訳である。
1998年版の写真をつける。





2019年3月2日土曜日

『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中公叢書、1967年)を巡って

◆有用性が証明された歴史観◆


▼梅棹忠夫の本は役に立つ

    国際情勢をよりよく理解したいと思ってこの何十年間、多くの本を読んできた。

    役立つ本はある。「役立つ」とはどういうことか。事実(ファクト)を伝える本はそれなりに役に立つ。たとえば「ベトナム戦争の歴史を知りたい」という目的があれば、それに合った本がある。

    より抽象的な理論を書いた本は役に立つか。これは要注意だ。現実に当てはまらない理論を読むのは、時間の無駄である。もしくは、その理論に影響されれば有害である。現実に起きていることを曲解することになる。理論を現実にあてはめて検証し、現実からのフィードバックで修正する不断の作業が必要である。

    知識とか理論といった範疇を超えて、ものの見方を高みに引き上げてくれる本がある。ブログ執筆者にとって、梅棹忠夫はそういう本を生み出した人だ。拙著『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点    ベルリンの壁からメキシコの壁へ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)では「慧眼の持ち主」と表現した。

   半世紀以上前に出版された代表作『文明の生態史観』を再読した。梅棹忠夫の思考の有用性は時間の経過の中で証明されたとあらためて思う。

▼『文明の生態史観』

 「梅棹忠夫の文明の生態史観」を語る時、論文と、論文が収められた単行本を区別する必要がある。

 このユニークな文明論が最初に世に問われたのは1957年のことだ。すなわち「文明の生態史観序説」のタイトルで月刊誌「中央公論」1957年2月に掲載された。梅棹自身によると「序説」というのは雑誌側がつけたのであり、本人は完結性をもった論文だという自負を持っていた。

 この論文は大きな反響を呼んだ。梅棹はこの論文を跳躍台として、多彩な論考を執筆する。

 1967年に出版された単行本『文明の生態史観』は、論文「文明の生態史観序説」を中核にして、その先駆となった56年発表の論文、そして57年以降の諸論考をまとめたものだ。

 以上の経緯から明らかなように、論文「文明の生態史観序説」が核心をなしている。

 この本から重要な箇所を引用する。

「いままでのかんがえ方は、みんな文化の由来をもって日本の位置表示をおこなおうとしていた。(中略)わたしはここで、文化の機能論的な見方をみちびきいれたほうが、はなしが、いっそうはっきりするとおもう。それぞれの文化要素が、どのようにくみあわさり、どのようにはたらいているか、ということである」

 梅棹はここで「系譜論」から「機能論」への発想の転換を提唱している。彼自身の例えによれば、建築について、個々の材木が吉野杉であるか米松であるかをいうのが系譜論だ。機能論は、その建築が住宅であるのか学校であるのかを語る。

 現代日本の文化は、全体としてどういうデザインで設計されているのか。それは「高度の文明生活」、換言すれば「近代文明」だという。

「いちいち文明の特徴をあげるまでもないが、たとえば、巨大な工業力である。それから、全国にはりめぐらされたぼう大な交通通信網。完備した行政組織、教育制度。教育の普及、豊富な物資、生活水準の高さ。たかい平均年齢、ひくい死亡率。発達した学問、芸術。」

 日本は高度な文明国だという点を確認した上で、梅棹は「旧世界」(アジア、ヨーロッパおよび北アフリカ)を腑分けする。高度文明国になったのは、日本と、地理的には反対側にある西ヨーロッパの数か国だけだ。

 「旧世界を、ばっさり二つの地域にわけよう。それぞれを、第一地域、第二地域と名づけよう。(中略)第一地域の特徴は、その生活様式が高度の近代文明であることであり、第二地域の特徴は、そうでないことである」(82ー83頁)

 日本とヨーロッパは、いずれも第一地域である。

「わたしは、明治維新以来の日本の近代文明と、西欧近代文明との関係を、一種の平行進化とみている」(83頁)

 第二地域が遅れた地域で、第一地域が進んだ地域だと言うと、誤解を招く。そうした言い方だと、第二地域も時間が経てば第一地域の仲間入りすることになる。

 そうではない。なぜか。

 「わたしはつまり、第一地域と第二地域とでは、もともと、社会の構造がかなりちがうのだとかんがえている」(87頁)

 第一地域では、封建体制の中でブルジョアが育ち、革命によってブルジョアが実質的な支配権を握った。

「つまり第一地域というのは、封建体制のあった地域なのだ」(87頁)

 こうした世界観の下敷きとなっている理論のモデルとなっているのが「生態学理論」だ。生態学でいう「遷移(サクセッション)」の考え方を適用して、人間の共同体の生活様式の変化をとらえるのである。

 植物であれ、人間であれ、共同体の変化は次のように把握できる。

「一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する」(92頁)

 生態学は、主体と環境を一体のものとして観察する。

「要するに、サクセションという現象がおこるのは、主体と環境との相互作用の結果がつもりつもって、まえの生活様式ではおさまりきれなくなって、つぎの生活様式にうつるという現象である」(93頁)

 第一地域で、高度な文明までサクセションが進行できたのは、環境に恵まれていたからだ。

「そこは、めぐまれた地域だった。中緯度温帯。適度の雨量。たかい土地の生産力。(中略)何よりも、ここははしっこだった。中央アジア的暴力が、ここまでおよぶことはなかった」(96頁)

 第二地域では、第一地域のようなサクセションが起きなかった。ユーラシア大陸を東北から西南に斜めに横断する乾燥地帯の存在が大きい。

「乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯のまん中からあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのだろうか」(95頁)

「遊牧民はその破壊力の主流であり、そのお手本を提供したけれど、破壊力をふるうのは遊牧民とはかぎらない。そののち、乾燥地帯をめぐる文明社会そのものの中からも、猛烈な暴力が発生するにいたる」(95頁)

「第二地域の歴史は、だいたいにおいて、破壊と制服の歴史である」(95頁)

▼梅棹忠夫のすごさ

 梅棹は、上記の論文で近代における日本の文明と西欧の文明の間に「平行進化」を見出した。
 
 植物のサクセションに関する理論を、人間集団の生活様式の変化にあてはめた。
ブログ執筆者が考えるに、この二つの例が示すのは、梅棹の「結びつける」能力のすごさだ。既存の特定の学問の枠組みにこもっていないのである。

 見落としてはならないのは、梅棹が豊富なフィールドワークを行なっていたことだ。彼のユニークな思想は、けっして研究室の中で生まれたものではない。

▼生態史観の21世紀における意義

 梅棹が第一地域の特徴としてあげた高度な文明は、21世紀においては中国も達成しようとしているのではないか。

 表面的にはそう見える。だが、21世紀中国の文明はやはり第二地域の特色を持っている。そうした視角でとらえることが有効だと思う。第二地域のサクセションの一段階なのだ。

▼個人的な追記

 『文明の生態史観はいま』(梅棹忠夫編、中公叢書、2001年)で、梅棹が書いた次のくだりを読んだ時、心中で「ああ、そうだったのか」という感慨にとらわれた。

「わたしの著書『文明の生態史観』が刊行されてから約10年たった一九七八年に、月刊誌『現代の眼』の四月号に「生態史観と唯物史観」という論文が掲載された。著者は廣松渉氏である。廣松氏はマルクス主義哲学者としてひろく名をしられたひとで(以下略)」

「一九八七年二月二七日、廣松氏は夫人とともに国立民族学博物館にわたしをたずねてこられた。わたしたちは初対面であったが、食事をともにしながらおおいに歓談した。ふたりは学説をことにするとはいえ、一〇年の知己のようにたのしくかたりあった。廣松氏はまことにまじめな気もちのよい紳士であった」

 ブログ執筆者は大学当時、廣松渉先生の謦咳に接した。廣松先生が大教室で行った哲学概論の授業で、梅棹忠夫の生態史観に言及したことは記憶している。この二人にその後、こういう出会いがあったとは。


単行本『文明の生態史観』目次

東と西の間
東の文化・西の文化
文明の生態史観(雑誌掲載時の原題は「文明の生態史観序説」)
新文明世界地図―比較文明論へのさぐり
生態史観から見た日本
東南アジアの旅から―文明の生態史観・つづき
アラブ民族の命運
東南アジアのインド
「中洋」の国ぐに
タイからネパールまで―学問・芸術・宗教
比較宗教論への方法論的おぼえがき


梅棹忠夫について(2001年刊行の『文明の生態史観はいま』を参照した)

1920年京都市に生まれる。京都大学理学部卒。京都大学人文科学研究所教授、
国立民族学館長などを歴任。専攻は民族学、比較文明論。著書は、『文明の生態史観』『知的生産の技術』など多数。


 
 

2019年2月23日土曜日

映像作品紹介「ベトナム戦争の記録」(ケン・バーンズ&リン・ノービック監督、Florentine Films Production、2017年)


◆ベトナム戦争の全体像を知る◆


   全10回で計約18時間のドキュメンタリー作品。原題はTHE VIETNAM WAR。アメリカのPBS放送で2017年に放映された。ブログ執筆者はNetflixで視聴した。日本語の字幕がついていた。

 トランプ大統領の登場以降、メディアで「アメリカの分断」について報じられることが多い。「ちょっと待てよ。ベトナム戦争の時のアメリカも分断されていたのではなかったか」と疑問を抱き、この戦争について勉強し直さなければと思っていた。そんな時にNetflixでこの作品に出会った。

 実にありがたい、役に立つ作品だった。これを観たことで、断片的だった知識やイメージが一つにまとまった感じがする。

 アメリカ人監督の作品でアメリカの放送局で放映された作品であり、戦争の状況に加えて、アメリカ本土の政治・社会も丁寧に描いている。放映された年は戦争終結後42年にあたる。歳月を置いたからこそ、ベトナム戦争という巨大なできごとの全体像を描くことが可能だったのだろう。

 この映画の素材は、当時の記録映像とこの作品のために行ったインタビューだ。

 ベトナム戦争はテレビの影響力が最大限に発揮された戦争だった。米軍はテレビ局の取材に便宜をはかった。テレビカメラは文字通り戦場を映した。ドキュメンタリーを製作するには、この豊富な映像資料が役に立ったはずだ。

 だが単にできあいの映像をつなげただけではない。PBSの資料によると、この映画には80人に対するインタビューが使われている。大別すれば米国人とベトナム人。ベトナム人は戦争当時は南と北の分断国家のいずれかに住んでいた。

 インタビューを受けるのは現場にいた人々だ。アメリカ軍兵士、戦死した兵士の家族、北ベトナム軍人、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)兵士、南ベトナム軍人、そして一般市民が登場する。この人選が作品にバランス感覚をもたらしたのだと思う。1人1人に時間をかけてじっくり話を聞いたうえで、エッセンスを取り出したのだろう。

 この作品はいわば記録映像を横糸に、インタビューを縦糸にして、ベトナム戦争の絵を織り上げたと言えよう。

 ケン・バーンズ(Ken Burns)監督は、アメリカのドキュメンタリー映像作家で、南北戦争をあつかったTHE CIVIL WAR(1990年)などの作品がある。

    戦争の記録は必然的に人間の死を語る。シリーズの冒頭に数字が出てくる。米兵5万8千人死亡。南ベトナム軍兵士は少なくとも25万人死亡、北ベトナム軍・ベトコンの死者は100万人を超える。南北合わせて200万人の一般市民が犠牲になった。

 以下、各回の内容を紹介する。作品を見た際にとったメモが基になっている。作品の構成を知る一助としたい。ブログ執筆者にとって特に興味深かった点を手厚く書く。次の2冊を参照した。
三野正洋『わかりやすいベトナム戦争』(光人社、1999年)
小倉貞男『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』(岩波現代文庫、2005年)

 各回は時系列順に並んでいる。回数の次に書く西暦は、その回が扱っている時期を指す。

▼第1回    1858ー1961年

 この回はいわばベトナム戦争の前史である。19世紀後半からのベトナムの歴史の概略が語られる。

 押さえておくべきことはベトナムはフランスの植民地支配を受けていたことだ。そして独立運動の指導者、ホー・チ・ミンが登場する。     

 ブログ執筆者は、少年期にベトナム戦争報道に接した。そこからアメリカと北ベトナムが戦争しており、ホー・チ・ミンは北ベトナムの指導者だという図式が頭に焼き付いている。それは間違いではない。

 しかしこの回を見て、第2次世界大戦当時のベトナムを取り巻く図式は流動的であったことを学んだ。

 欧州で第2次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに敗れた。当時フランスの植民地だったインドシナ(ベトナムを含む)には日本軍が進駐した。

 1941年には「ベトミン」が結成される。共産党が中心になり、民族主義者も糾合した独立運動の統一組織だ。

 興味深いのは、第2次世界大戦中、そして大戦直後には、アメリカとベトミン、ホー・チ・ミンの距離は意外なほど近かったことだ。

 アメリカの情報機関OSSは、戦争中にベトミンと接触した。日本が正式に降伏した1945年9月2日、ホー・チ・ミンがハノイの集会で独立を宣言した。演説の中で、アメリカの建国の父の1人、ジェファーソンの “All men are created equal”(すべての人間は生まれながらに平等である) という言葉を引用した。

 大戦に勝利した連合国側は、ベトナムの北部を中国国民党軍の監視下におくと定めた。南部については、当初は英印軍が統括し、1945年秋にフランス軍がとって替わった。

 ブログ執筆者は、分断国家に関心があるので、この1945年のできごとが、南北ベトナム分断のスタートとして重要だと考える。

 フランスがベトナムの支配を放棄しなかったことが分断の固定化につながる。ベトミンは1954年にディエンビエンフーの戦いで大勝した。その結果、結ばれたジュネーブ協定(1954年)で、ベトミンは緯度17度線の北部、フランス軍は南部へと分けられた。

 フランス軍は翌1955年に完全撤退したが、南部ではゴ・ジエムなる人物が大統領選で当選し、1955年に「ベトナム共和国」(以下「南ベトナム」と表記する)が発足する。北部ではホー・チ・ミンが率いる「ベトナム民主共和国」(「北ベトナム」)が確立していた。

 問題はアメリカの動向である。アメリカはベトナムで、中立的な立場をとるのではなく、フランスを肩がわりして南ベトナム支援へと傾斜していく。なぜか。1950年に勃発し1953年まで続いた朝鮮戦争が大きな影響を及ぼした。

 朝鮮戦争では、ソ連、中国の支援を受けた北朝鮮が韓国に侵攻した。米国が軍事介入して、韓国を滅亡の危機から救った。
 朝鮮戦争を受けて、米国のアジア政策は、共産主義の拡大をくいとめると課題を優先するようになったのだ。共産主義の北ベトナムは脅威であり、南ベトナムは守るべき対象となった。

 1960年に南ベトナム解放戦線(略称NLF)が結成される。その軍事部門がベトコンと呼ばれた。

 ベトコンと北ベトナムの関係をどうとらえるかは、戦争当時の報道の争点だったが、ここでは立ち入らない。北ベトナムが主導的だったという立場から記述する。

▼第2回  1961ー63年   

 この回で扱われる期間は、ベトナム戦争の初期と言えるだろう。ゴ・ジエム政権の南ベトナム軍とベトコンが戦った。

 アメリカでは、1961年にジョン・F・ケネディ大統領が就任した。ケネディは63年に暗殺されたので、この回はケネディ政権期を扱ったとも言える。

 アメリカ軍が直接、戦闘することはなかったが、南ベトナムに軍事顧問を送っていた。南ベトナム支援という形で、アメリカは次第にベトナムに足をとられていく。

 南ベトナムはベトコンの勢力拡大に悩んでいた。アメリカの発案で、ベトコンの浸透をシャットアウトした「戦略村」設置を試したが、農民の間では不人気だった

 1963年に南ベトナムでクーデターが起きて、ジエムは射殺された。

 一方、北ベトナムでは、労働党(共産党)の強硬派であるレ・ズアンが次第に実権を握っていく。

 この回にはUPI記者だったニール・シーハン氏がインタビューで登場する。のちにニューヨークタイムズに移り、「ペンタゴンペーパー」という機密文書をスクープしたことで知られる。(このスクープは第9回で扱われる)

▼第3回 1964年1月ー1965年12月

 この回でついにアメリカはベトナムに直接的な軍事介入に踏み切る。アメリカの大統領はケネディの副大統領だったジョンソンだ。

 ブログ執筆者が驚いたのは、ジョンソンとマクナマラ国防長官、バンディ国家安全保障問題担当大統領補佐官、ウェストモーランド将軍ら政権・軍の幹部との電話会話が流されることだ。どういう経緯で録音され、公開されたのか知りたいところだ。

 一連の電話会話からはっきり伝わってくるのは、ジョンソン大統領がベトナムへの介入をためらっていたことだ。南ベトナムを支えられるのか。とても確信は持てなかったようだ。

 1964年にいわゆるトンキン湾事件が発生する。アメリカの駆逐艦が、北ベトナムの魚雷艇から攻撃を受けたとされる事件だ。ジョンソン大統領は報復として北ベトナムへの空爆を命じた。アメリカの議会はトンキン湾決議を採択して、大統領に戦争権限を与えた。

 1965年3月、アメリカの海兵隊が南ベトナム・ダナンに上陸した。地上軍の投入である。
   
 アメリカはついに一線を越えたのだ。

 北ベトナムは、米軍のプレゼンスが増す前に、北ベトナム軍を南ベトナムに送り込む。

▼第4回 1966年1月ー1967年6月
▼第5回 1967年7月ー1967年12月

  第4回、第5回が扱う時期、米国は大量の兵力をベトナムに送ったにも関わらず、戦争に勝利することはできなかった。

 マクナマラ国防長官は、合理的な思考に基づき戦略を立てた。敵も同様に合理的に考えるという前提に立っていた。ベトナムの現実にマクナマラ路線は行き詰まる。国防長官はクリフォードに交代する。

 米兵の戦死者は増加し、米国内ではベトナム戦争への疑問の声があがる。

 北ベトナムは、ラオス、カンボジアを通るホーチミンルートを使って、南ベトナムに軍事物資を運んでいた。

▼第6回 1968年1月ー1968年7月

 ブログ執筆者にとって、もっとも印象深かった回だ。

 一つには「テト攻勢」という転換点を扱っているからだ。もう一つの理由は、映像の衝撃力にある。

 テト攻勢は、北ベトナムが1968年1月末のテト(旧正月)に開始した作戦だ。南ベトナムの多数の都市を攻撃した。北ベトナムの労働党内では、レ・ズアンがテト攻勢を主導した。

 北ベトナム側がテト攻勢に踏み切った背景は、南ベトナムの人民が蜂起するだろう、そして南ベトナム軍からも離反がおきてこちら側に寝返るだろうという読みがあった。

 北ベトナム・ベトコンによる同時多発的な攻撃は、南ベトナム、アメリカ軍に衝撃を与えた。しかし、共産主義勢力に懐疑的な南ベトナムの一般国民の蜂起は起きなかったし、南ベトナム軍が部隊単位で寝返ることもなかった。

 軍事的な観点から言えば、テト攻勢は失敗に終わった。

 しかし、政治的にはアメリカは大打撃をこうむった。米国のテレビがベトナム現地の「暴力と破壊の映像」を大量に放映して、国民に衝撃を与えたのだ。

 南ベトナムの首都サイゴンでは、ベトコンがアメリカ大使館に侵入して、一時占拠した。大使館に居合わせたテレビクルーによると思われる映像は、ベトコンとの銃撃戦を伝えた。

 米NBC放送の記者は、サイゴンの路上で、銃撃をさけて身を横たえた状態で中継する。自分のズボンに血がにじんでいるといい「どうも撃たれたようです」と語る。

 アメリカ世論へのダメージという面で決定的な映像があった。テト攻勢の最中に、南ベトナムの警察庁長官が、ベトコン容疑者を、路上で、報道陣の目の前で射殺したのだ。アメリカの新聞、テレビは大きく報道した。

 アメリカ国民の疑問はふくらんだ。政府高官が裁判もなしに容疑者を公開処刑する。こんなひどい体制を、アメリカが兵士の命を犠牲にして支える大義があるのかと。

 おそらくベトナム戦争が終わってから明らかになった北ベトナム側の蛮行もあった。

  激戦地となった古都フエで起きた。テト攻勢で一時、北ベトナム側が占領した。市街戦を経て米軍側が奪回する。北ベトナムの勢力は撤退する時に、「敵側」と見なした市民多数を集団処刑した。犠牲者の数は2800人以上だという。


▼第7回  1968年6月ー1969年5月
▼第8回  1969年4月ー1970年5月

 この回では、アメリカがベトナム戦争での勝利を諦め、ベトナムから手を引こうとし始める過程が描かれる。

 1968年の大統領選挙では、共和党のニクソンが当選した。停戦への予備交渉として、アメリカ、南ベトナム、北ベトナム、ベトコンによる「円卓会議」がパリで始まる。

 1960年代末のアメリカは揺れていた。反戦、反黒人差別、環境、女性ーこうしたテーマを巡り運動が盛り上がり、対立や分断が社会を揺るがした。

 「ソンミ」におけるアメリカ兵による住民虐殺事件が明るみに出た。日本でも広く知られた出来事だ。

 アメリカで、北ベトナムの捕虜になった兵士の返還をもとめる運動が広がりを見せたことも見逃せない。アメリカ人は政治的な立場の違いを超えて、基本的に軍、兵士に敬意を抱き、大切に思うのだろう。だからこそ南ベトナムを支えるために兵士の命を失ってよいのか、という議論が痛切だったのだろう。

 1969年9月2日には、北ベトナムのホー・チ・ミンが死去した。それ以前から実権を握っていたレ・ズアンは、南ベトナムでの攻勢を繰り返した。

 第7回で紹介される日系人のアメリカ軍人、オカモト中尉のエピソードは、日本人としては心に響くものがあった。

▼第9回  1970年5月ー1973年3月
▼第10回    1973年3月ー

 この2回では、米軍が撤退し、北ベトナムが軍事力で南ベトナムを崩壊させ、統一を達成する。

 米軍撤退を可能にしたのが、1973年にパリで締結された和平協定だった。
米軍撤退、米軍捕虜釈放という二つがニクソン政権が追求し、実現したものだった。協定は、恒久的な南北の平和共存にはつながらなかった。

 1975年4月、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを攻略し、戦争は終結する。

2019年2月9日土曜日

書評 『朝鮮の政治社会』(グレゴリー・ヘンダーソン、鈴木沙雄・大塚喬重訳、サイマル出版会、1973年)

◆韓国政治を論じた記念碑的著作◆


(写真は1997年の第2版)

   大学の講義で韓国の政治をとりあげると、学生からよく寄せられる質問がある。「どうして韓国では大統領を務めた人が次々とスキャンダルにみまわれたり、逮捕されたりするのか」
   1980年代後半に民主化した韓国は、経済も発展し、世界トップ10に入る輸出大国となった。だが、政治は安定しない。激しい政争が繰り返される。歴代の大統領経験者が国民から広く敬意をもたれるわけでもない。

    韓国政治の特徴は何なのか。その原因はどこにあるのか。こうした問いを抱く者にとって、この本は読みがいのある労作である。

   原著は、 KOREA: The Politics of the Vortexという。vortexとは渦巻を意味する。より原語に忠実にタイトルをつければ「渦巻の政治」となるだろう。1968年にHarvard University Pressから出版された。日本語版はその5年後に出ている。

  内容は古びていない。今日の韓国政治を考察する際にも十分に役に立つ。

   韓国の政治を、著者グレゴリー・ヘンダーソンは、「渦巻の政治」と表現した。著者の思考が端的に表現された部分を序説から引用する。

「朝鮮の政治力学の法則は、社会のあらゆる活動的分子を、権力の中心へ吸い上げる一つの強力な渦巻にたとえられよう。(中略)垂直的圧力には反作用がかからない。というのは渦巻の形成を妨げ、あるいはすでに形成された渦巻を制止できる、地方のまたは独立した集団が存在しないからである」(5頁)

   この本の価値のかなりの部分は「渦巻」という表現の巧みさにある。韓国政治の特徴を上手にとらえている。

   引用した箇所の最後のセンテンスも重要だ。どうして「渦巻」のような現象がおきるのかを説明している。渦巻きを制止するような地方の集団、独立した集団が存在しないと言う。

   これには歴史的な背景がある。14世紀に始まり日本による植民地化でおわった李氏朝鮮は、中央集権だった。朝鮮は、日本や欧州のように封建制を経ていない。「朝鮮には、日本やヨーロッパ社会を特徴づける武具師、染め物師、商人や専門化、位階制組織、忠誠心などを発達させた城下町や、ギルド、商港、商人社会は確立されなかった」(235頁)という指摘は重要だ。

   20世紀後半の韓国政治の源流を求めて、李氏朝鮮の歴史にさかのぼる。こうした視野の大きさがこの本の特徴だと言える。こうした雄大な構えは、著者の経歴に根ざしている。

   ヘンダーソンは、韓国語ができる米国の外交官として、1948年7月にソウルに赴任した。「大韓民国」建国の直前のタイミングだ。50年10月までの勤務で、李承晩政権の混乱ぶり、そして朝鮮戦争勃発まで経験したことになる。2度目の韓国勤務は1958年5月から63年3月まで。今度は、「学生革命」による李承晩政権の崩壊と朴正熙らによる軍事クーデターを現地で観察した。

   激動期は民族や国家が持つ性格を露呈する。著者は韓国ウォッチャーとして実に豊富で貴重な見聞を積んだに違いない。その上で1963年に大学での研究生活に入った。生々しい体験から得た直観を、歴史学や政治学の成果を参照しつつ掘り下げ、より広い文脈の中で位置づけていった。その営々たる努力の成果がこの本だ。

  ブログ執筆者にとって、2000年に出会った懐かしい1冊だ。4月の国会議員選挙を前に、市民団体による「落選運動」が猛威をふるっていた。そのさなかに、韓国の公共放送KBSの朴権相社長と会った。東亜日報出身の高名なジャーナリストである朴氏が、この本を読むことを薦めてくれた。

   おかげで気づいたことがある。韓国政治をフォローしているプロたち、すなわち学者やジャーナリストの間では、「渦巻」と言うだけで、この本をふまえた表現だと理解される
のだ。日本人同士だけでなく、韓国人の専門家相手にも同様の経験をした。その筋では、よく知られた本なのだ。

   にもかかわらずこのブログを書いている時点(2019年2月)で、この本が絶版となっているのは残念だ。復刻する価値のある重要な著作だと思う。


著者について(この本の著者紹介・第二版訳者まえがき、ニューヨークタイムズ1988年10月18日付による)

グレゴリー・ヘンダーソン (Gregory Henderson)
1922年生まれ。マサチューセッツ州出身。43年ハーバード大学卒業。在学中に日本語を学び、海兵隊の語学将校になり、サイパンなどの戦闘に参加。47年国務省入り。韓国駐在は2回、計7年に及ぶ。63年ハーバード大学国際問題センター客員研究員。以後、タフツ大学などで研究を行う。1988年死去。




目次


朝鮮政治の近代化とその力学ー序説


1部  社会的同質性と中央集中化ー渦巻パターンの源泉

1  単極磁場ー中央志向の土壌
2  伝統的な社会ー維持の背景 


2部  朝鮮政治の弁証法ー渦巻パターンの検証

1  近代的政治動員の発端ー李朝最後の五〇年
2  全体主義的植民政策ー日本の朝鮮統治
3  分裂と抗争の復活ー米軍占領下の朝鮮
4  民主主義の流産ー李承晩から朴正煕まで


3部  朝鮮的政治風土の構造ー渦巻パターンの力学

1  中央集権化と政治の流動化
2  機能と機構の拡散ー朝鮮文化固有の基盤
3  派閥主義と評議機関の機能


4部  政治的凝集の探求ー渦巻パターンの解体

1  政党ー無力なエリート集団
2  共産主義ー南北異なる効用
3  軍部ー改革の中核へ
4  多元化社会の可能性ー地方政権に権力分散を