2020年12月31日木曜日

書評 『世界史から読み解く「コロナ後」の現代』(佐藤けんいち、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年)

 ◆グローバル化の後の混乱期◆


 新型コロナウイルスが世界をいかに変えたのか。世界はこれからどんな方向に向かうのか。こうした問いを考える上で役立つ本である。

 キーワードは「グローバリゼーション」(グローバル化)だ。

 筆者は、1980年前後に始まった第3次グローバリゼーションが新型コロナウイルス感染症によって「強制終了」をかけられた、ととらえる。本のタイトルにある「コロナ後」とは「第3次グローバリゼーション後」と言い換えることができる。

 今日を考えるための比較の対象として、第1次グローバリゼーションとその終了、終了後の混乱と調整の時期を描く。第1次は、16世紀に始まり17世紀に終了した。だからこの本は現代と約400年前を比べていることになる。このスケールの大きさが特徴といえる。

■佐藤けんいち氏の著作の展開

 おいおい、第2次、第3次について論じずにいきなり400年前に戻るのか、と不審がる人もいるだろうか。佐藤氏は『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(2017年)という作で、第2、第3次の時期を論じている。このブログでも紹介した。

 今回の本は、佐藤氏にとって先の自著を発展させたという意味合いがあろう。ビジネスパーソンが現代を考える上で参考になるように、という目的も共通する。いずれも独立した著作として読めるように構成してある。

■第1次グローバリゼーション

 第1次グローバリゼーションの主役となったのは、スペイン、ポルトガル、オランダ、英国という、大航海に乗り出し、新大陸やアジアを通商のネットワークに収めた諸国である。

 
 スペインは、東アジアに現れる前に、「新大陸」とよばれた中南米で採掘したシルバー(銀)を手にしており、中国貿易の中継点として確保した植民地フィリピンにおいて、ユーラシア大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸のすべてがかかわる経済が成立したのである。(p17)

 銀を産出した日本もこのグローバリゼーションのネットワークに引き込まれる。受け身の反応にとどまっていた訳ではなく、プレーヤーであった。「朝鮮の役」(文禄・慶長の役)は、「明朝を中心とした東アジアという国際秩序に対する秀吉の挑戦」だった。

■17世紀の気候変動

 第1次グローバリゼーションが17世紀に終わった要因として、佐藤氏が強調しているのは、17世紀の寒冷化と、世界的な銀供給量の減少だ。

 この「17世紀の寒冷化」というポイントは、西洋史の専門家には常識なのかもしれない。ブログ執筆者は勉強不足のため予備知識がなく、この本で学んだ。

 太陽活動が低下したのが原因だった。「小氷期」と呼ばれる寒い時期は14世紀に始まっていたが、1645年から1715年の「マウンダ―極小期」が最も寒冷化が厳しかったという。

 気候が寒冷だと、食糧生産が不調になり、ひいては反乱や宗教的な争いなどで社会が不安定になる。

 今日、17世紀の歴史を論じる上で気候変動を重視する効用は明かだろう。地球温暖化問題が世界政治・経済に重大な影響を与えている。寒冷化と温暖化だからベクトルは逆だ。また、今日の温暖化問題では、温室効果ガスの排出という人為的原因が強調され、人間の努力によって温暖化の度合いを緩和できるという議論が有力だ。

 そういう違いはあるのだが、とにかく、国際関係を論じる上で気候変動を視野に入れることが不可欠になっており、17世紀について知ることで気候変動への理解の幅が広がる。

■鎖国

 冒頭、この本のキーワードとして「グローバリゼーション」を挙げた。本の後半になると、もう一つのキーワード「鎖国」が浮上してくる。

 ブログ執筆者にとって、もっとも刺激を受けたのは鎖国を巡るかしょだった。

 われわれは17世紀から始まった日本の鎖国について一定の共通知識がある。日本の鎖国と、清や朝鮮がとっていた政策を比較する論も多い。(近年、日本史の用語を巡って、「鎖国」という表現をやめた方がいいという意見もあるが、ここでは立ち入らない)

 佐藤氏は、グローバリゼーションが停止していた時期についてこう記す。

 経済にかんしていえば、「鎖国」という管理貿易体制を確立していた日本と、「重商主義」による管理貿易で独占経済を確立していた西欧は、基本的に似たような経済体制をとっていたといえよう。(p296)

 鎖国していた日本でも、外国と貿易をしていたし、オランダを窓口に情報も入ってきてはいた。ただ、英国を筆頭とする欧州諸国が、産業革命、植民地拡大という滔々たる流れ(第2次グローバリゼーション)を引き起こしたのに対して、徳川幕府の支配体制に縛られていた日本は機敏に反応しなかった。いや、できなかった。

■ビジネスパーソンへの助言

 終章は、ビジネスパーソンへの助言を書いている。

 歴史を語ってきた後で、具体的なアドバイスとして、自己規律の大切さを挙げていることに、「佐藤さんらしい」という感慨を抱く。「超訳 自省録」の編訳者としての側面だ。

 過去を過度に美化したり、未来をひたすら明るく描くのはやめたほうがいい。「いま、ここ」が大事なのだ。(p302)

 続いて、「まずは自国の足許を固め、内部を固めること」が重要だと説く。
  
  そして、「ローカル」の大切さ、源泉としての日本文化、外部の情報に敏感になる必要性が挙げられている。

 この章はビジネス書らしい部分と言えるのだろう。大学生も多くは、数年すればビジネスの世界に入っていく。大学時代に歴史を勉強する中で、こういう刺激を受けることは有意義だ。

■国家について頭の整理

 ブログ執筆者は大学の講義で「ネーション・ステート」とについて説明してきた。現代の国際政治を理解する上でカギとなる国家のあり方だからだ。

 佐藤氏の今回の本では、「ネーション・ステート」(国民国家)に先行する「主権国家」についての説明が詳しい。学ぶところが多かった。

 「ポストコロナ」と呼ぶか、「ウィズコロナ」と表すか。人によって違うだろう。しかし、われわれが生きていくこの時代では、国家について粘り強く考える必要があることは間違いない。

▽著者について
ケン・マネジメント代表。1962年、京都府生まれ。一橋大学社会学部卒。
主な著書に『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』、『超訳 自省録』、『ガンディー 強く生きる言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン社刊)、『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』(こう書房)がある。

▽目次
1章 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で「第3次グローバリゼーションが終わった」
2章 「第1次グローバリゼーション」がもたらした地球規模の大動乱(16世紀)
3章 「第1次グローバリゼーション」の終息(17世紀)
終章 ビジネスパーソンはグローバリゼーションが終わった「17世紀の世界史」から何を学ぶべきか


2019年9月25日水曜日

『アメリカの恩寵 宗教は社会をいかに分かち、結びつけるのか』(ロバート・D・パットナム、デヴィッド・E・キャンベル、柴内康文訳、柏書房、2019年)

◆アメリカ人にとって宗教はかくも重大事なのだ◆
「訳者あとがき」は、原著が2010年に刊行された際、「インスタント・クラシック(公刊時点で名作)」という評価が与えられた、と紹介している。もっともだと思う。今後、アメリカ社会と宗教を語る上で必読書だ。



 世論調査・アンケート調査の数字を駆使して、慎重に分析している。それがこの本を貫く学問的な姿勢と言える。「挿話」と題された複数の章では、筆者たちが宗教の現場を訪れて拾った信者の声が記述されている。並のジャーナリズムを凌駕するほど生き生きしている。それぞれの宗教・宗派の雰囲気が伝わってくる。

アメリカにおける宗教に関する議論は全て、アメリカ人が強く宗教的な人々であるという疑問の余地ない事実からはじめなければならない(p13)

 ある人が宗教・信仰について聞かれて、「特定の宗教・宗派に属している・いない」と答えることと、「神を信じている・いない」ということは、区別しなければならない。この本から学んだことだ。アメリカに「無神論」「不可知論者」はほとんどいない。2011年の調査では、自分がスピリチュアルであると考える人は75%にのぼる(p548)。

 アメリカの今日における宗教と政治の関わり合いを整理する上で、役に立つのは、第2次世界大戦後に起きた「三度の地殻変動」という節目を捉え方だ。

 まず、「性的解放の1960年代」に、性にまつわる倫理観が大きく変わる。それまで宗教的観点からよくないとされていた婚前交渉を認める人が増えた。

 60年代の性的解放への反動が、二つ目の地殻変動、すなわち保守的宗教、特に福音主義派の成長を引き起こした。福音派信者の増加は1970年代に始まり90年代初頭に終わった。しかし、保守的な信者であり、かつ政治への積極 的に参加した宗教右派は、時間差をもって21世紀のアメリカ政治で強い影響力を持つようになる。

 宗教右派の影響力拡大への反発から、若者が、次第に宗派に属することを拒否するようになる。これが三つ目の地殻変動だ。

 同性婚と妊娠中絶が、米国世論を二分する問題であることはよく知られている。いずれも宗教がからむ問題だ。

 その長期的なトレンドが対照的であることは興味深い。同性婚への支持は上昇している。他方、妊娠中絶の自由への支持は下降している。

 なぜ妊娠中絶への支持が低下しているのか。著者は、学問的良心から「直感」だと断りつつ、子宮内超音波画像の普及が影響しているのではないか、と書いている。

▼著者について
ロバート・D・パットナム、デヴィッド・E・キャンベル 1940年生まれの政治学者。メソジストとして育てられ、結婚に際してユダヤ教に改宗した。
デヴィッド・E・キャンベル   1971年生まれの政治学者。末日聖徒イエス・キリスト教会教徒(モルモン教徒)

▼目次
第1章 アメリカにおける宗教的分極化と多様性
第2章 挿話――古きものと新しきもの
第3章 アメリカの宗教性――歴史的背景
第4章 アメリカの宗教性――激震と二つの余震
第5章 切り替え・整合・混合
第6章 宗教におけるイノベーション
第7章 挿話――エスニシティ、ジェンダーと宗教
第8章 女性革命、不平等の増大と宗教
第9章 多様性、エスニシティと宗教
第10章 挿話――いかに宗教と政治が結びつくのか
第11章 アメリカ政治における宗教
第12章 エコー・チェンバー――会衆内部での政治
第13章 宗教とよき隣人性
第14章 分断された家?
第15章 アメリカの恩寵――寛容な国家がいかにその宗教的分断を橋渡しするか
エピローグ
謝辞
補遺1 信仰重要性調査
補遺2 データ分析
訳者あとがき/原注/索引

▼原著
Robert D. Putnam and David E. Campbell,  American Grace: How Religion Divides and Unites Us, New York: Simon and Schuster, 2010

◾️補記 マイク・ペンス副大統領
 以下はブログ執筆者による個人的見解だ。

 この本が提示してくれる宗教と社会・政治に関する見取り図の中にあてはめると、例えば、マイク・ペンス副大統領という政治家がよりよく理解できる。

 1959年生まれのペンスは、カトッリックの家庭に育ち、大学時代に「ボーン・アゲイン」を体験した。政治家になってからは、福音主義派を支持基盤としている。トランプ政権の中で、抜きん出て宗教色が強い。

 ペンスは、同性愛者への差別を助長する側に立っている、という批判に反論する。「プロライフ(妊娠中絶反対)」という主張は、あらゆる機会を捉えて発信する。上記にあげた長期的なトレンドの中で、合理的な行動をしていると言える。

2019年8月17日土曜日

書評 『ホー・チ・ミン』(古田元夫、岩波、1995年)

◆金日成と比較したい◆ 

 1995年に出版された数か月後、読売新聞の読書欄がこの本をとりあげた。丹藤佳紀記者による書評の冒頭はこうである。

「ベトナム戦争末期のサイゴンで、ある普通の市民の家に、戦争相手の北ベトナムの元首、ホー・チ・ミンの肖像画が飾られていて驚いたことがある。朝鮮戦争後の韓国の家庭で金日成(キムイルソン)主席のものなど絶えて見られなかったからだ」(読売新聞1996年3月24日)

    ソウル特派員、サイゴン特派員を歴任したベテラン記者ならではの回顧だ。ブログ執筆者のベトナムへの関心も、いわば朝鮮半島経由である。朝鮮半島の歴史を理解する上で、ベトナムと比較すると見えてくるものがある。

    その一環として、北ベトナムの指導者だったホー・チ・ミンの伝記を読んだ。

   著者、古田元夫は、ベトナム戦争のころに大学時代を過ごした世代だ。ベトナム戦争から受けたインパクトは大きかったに違いない。だが、この本の良さは、ベトナム戦争に焦点をあてるのではなく、ホー・チ・ミンという指導者の生涯を、20世紀のベトナム、インドシナ、共産主義運動の歴史と関連づけながら記述した点にある。

 ホー・チ・ミンは、ある意味では、「傷のついていない指導者」である。(5頁)
ホー・チ・ミンが1930年に創設した共産党が今日のベトナム共産党である。フランスの植民地だったベトナムで、独立運動を指導した。フランスが手を引いた後も、ベトナム民族は北ベトナムと南ベトナムという二つの国家に分かれるという分断状態に置かれていた。アメリカが南ベトナムを支えていた。ホー・チ・ミンは戦争中の1969年に死去したが、北ベトナムは武力で統一を果たした。

    ベトナム共産党は1991年に、党の思想的基盤として、マルクス・レーニン主義に加えて「ホー・チ・ミン思想」を党規約に明記した。市場経済をとりいれるドイモイ(刷新)政策を推進する党が、国家のまとまりを維持する上で、死せるホー・チ・ミンを必要としたのだ。

 この思想を説明する上で、よく引用されるという   ホー・チ・ミンの1947年の発言が興味深い。

孔子の学説は、個人の道徳の修養を重んずるという優れた点がある。
イエス・キリストの宗教には、高い博愛心という優れた点がある。
マルクス主義には弁証法という優れた点がある。
孫逸仙(孫文ー訳注)の主義にはわが国の条件にも合う三民主義政策という優れた点がある。(10ー11頁)
(中略)
私も、これらの方々の小さな弟子となるように努力したい。
ホー・チ・ミンは、自らが思想家であると規定したことはなかった。独立運動家であり、政治指導者として発言し、行動した。そもそも共産主義運動に加わったのも、レーニンの論文「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」(1920年7月16ー17日『ユマニテ』紙発表)に共鳴したからだ。ヨーロッパにしか適用されなかった民族自決の原則を普遍的なものとして、先進国プロレタリアートの革命闘争と被抑圧民族の解放運動の同盟を提唱した論文である。

 「民族の独立」こそがホー・チ・ミンが追求した目的だった。思想を論じる際にも、この目的を達成するために論じた。

 1927年に発行されたパンフレット『革命の道』は、  「革命家の資格」という道徳論から始まる。古田氏が指摘するように、革命論が道徳論から始まるのは、いかにも「アジア的」である。たとえば、「慎重にして臆病にならず、よく質問する」といった徳目が説かれている。

  ベトナムの歴史によって育まれてきた政治風土に根ざした言動こそが、ホー・チ・ミンが死後なお威光を保つ一因だろう。

 ブログ執筆者の関心事である、北朝鮮との比較という観点から、付言する。

    思想に着目する時、北朝鮮の国家主席だった金日成との対比は鮮明である。
 金日成は、武力統一を目指した朝鮮戦争で挫折した後、国内で独裁体制を強化する過程で、「主体思想」なるイデオロギーを唱える。金日成の長男であり、後継者となった金正日が、「主体思想」を独裁体制の教条として変容させ、大いに利用した。

  ホー・チ・ミンは、フランスによる植民地支配の終結、アメリカとの戦争での勝利(ホー・チ・ミン自身は勝利を見届けることができなかったが)という成果を残した。死後、その「思想」が整理され、尊重された。

 金日成・金正日はそうした成果を挙げてはいない。「主体思想」は成果に裏打ちされていない。
 
  最後に、ブログ執筆者が関心をもった箇所をもう一つ紹介しておく。民族がどのような植民地支配を経験したか、そして独立後にその経験を自民族の歴史の中でいかに位置付けたか。朝鮮半島とベトナムを比較する上で示唆的である。。
    ホー・チ・ミンがベルサイユ講和会議に嘆願書を出した直後、フランスのインドシナ統治と日本の朝鮮統治を比較する発言や論文を残している。

ホーは、「日本帝国主義を擁護するという軽蔑すべき役割を果たすつもりはない」としながらも、「日本人は朝鮮人を完全に日本化しようとしている。これとは反対に、フランス国はアンナン人とフランス人の間の不平等を永遠に維持しようとしている」として、フランスの愚民政策を厳しく批判し、「フランスは、日本が朝鮮に対するような大胆さを、インドシナに対して示せるだろうか?」と指摘している。
 当時、朝鮮において三・一独立運動の高揚を弾圧した日本は、一九一九年八月から、その統治政策を、いわゆる「武断統治」から「文化政治」に転換しようとしており、(中略)日本支配に抵触しない範囲で、言論、出版、集会、結社の自由を認める方向に政策を改めていた。(51頁)

▼著者略歴
1949年生まれ。ベトナム近現代史の研究者。東京大学大学院社会学研究科国際関係論専攻修了。

▼目次
第一章    ドイモイ時代のホー・チ・ミン
第二章    ホー・チ・ミンの旅
第三章    ホー・チ・ミンのナショナリズムと国際主義
第四章    政治指導者としてのホー・チ・ミン
第五章    ホーおじさんの栄光と限界
第六章    直弟子の「最後の闘争」




2019年5月22日水曜日

書評 『ユダヤ人とユダヤ教』(市川裕、岩波新書、2019年)

◆「ユダヤ」の本流を描く◆


 読むことによって、自分がユダヤ人について持っていた断片的な知識や経験が核を得て、一つにまとまっていく。それほどの力を持った本だった。

 ブログ執筆者は、記者としてドイツ報道に携わった。ドイツのニュースを扱う上で、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺「ホロコースト」は避けて通れない。だから、ユダヤ人に関連した書籍も読んでいた。

 また、中東報道にも参加したことがあり、1990年代初頭には短期間ながらイスラエルに出張した。ユダヤ人がいかにしてイスラエルを建国したかについても勉強した。

 この本を読んで痛感した。「ホロコースト」、そしてイスラエルという国家の建設について知ることは、ユダヤ人を語る上で欠かせない。いずれも20世紀の大事件だ。しかし、それだけではユダヤ人を知ったことにはならないのだ。ユダヤ人の歴史は長く、多様である。

 全189ページの新書である。決して大冊ではない。章ごとに「歴史」「信仰」「学問」「社会」という4つの視点から、ユダヤ人とユダヤ教を解説している。

■中世のユダヤ人について学べる

 ブログ執筆者があらたな知識として習得したのは中世におけるユダヤ人に関する部分だ。

中世においてユダヤ人はイスラム世界に組み込まれることで、バビロニアを中心にユダヤ史のなかでも類をみない繁栄を享受することになる(15ページ)

ユダヤ教とイスラム教はともに中東を発祥の地とする宗教で、唯一神とその預言者を信仰する宗教共同体として独特な宗教集団を形成した(17ページ)

 ユダヤ教とイスラム教は単に中世において共存しただけでなく、重要な共通性があると気づいた。次のくだりを読んでである。

ユダヤ教の世界はキリスト教の世界とは異なり、「宗教」から切り離された世俗法の領域は存在しない(55ページ)

 著者市川裕さんは、「ラビ・ユダヤ教」という概念の重要性を強調する。「ラビと総称される律法学者によって構想され組織化されたユダヤ共同体の思想と実践」を指すという。(58ページ)

 「実践」という単語に意味がある。著者の視線はユダヤ人がいかに生きていたか、に向けられる。

 その「生きる」には「学ぶ」も含まれる。律法(唯一神の意志)の学習を「タルムード」と呼ぶ。学習はもともと口伝だったが、様々な書物が編纂されていく。最も重視される「バビロニア・タルムード」は西暦500年頃に成立した。

 「タルムード」を巡る記述はこの本の中の白眉と言えるだろう。書物としての「タルムード」には、あるラビの主張のあとには、別のラビによる違う主張が置かれている。学習は「かつてのラビたちがあたかも時空を超えて議論しているのを聴くかのように進められる」(108ー109ページ)。

■近代の「国民国家」の衝撃について考えさせられた

 18世紀後半のフランス革命と19世紀初頭のナポレオンの支配を経て、欧州は「国民国家」の時代に入る。(学生のみなさんへの注。「国民国家」については、森千春著『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点』23ー24ページに説明があります)

  近代におけるユダヤ人は「国民国家」の衝撃を受けて、独特の軌跡を描いた。ユダヤ人であることの意味合いが複雑化したとも言える。

 「国民国家」の形成は、その国に住むユダヤ人にとって、信教の自由と国民の一員としての地位を得たことを意味する。国民の一員であることは、国家に対してたとえば兵役などの義務を負うことでもある。住んでいる国家に忠誠を誓うとともに、ユダヤ教を信奉するという生き方が生まれた。

 別の道を志向する勢力もあった。ユダヤ人も民族として国家を持つべきだという運動である。

 著者の表現を引用すれば、「宗教としてのユダヤ」「民族としてのユダヤ」という二つの定義が並存するようになったのだ。

 民族として国家を持つという運動が20世紀に結実したのがイスラエル建国である。

 ユダヤ人は西欧では国民国家の一員となったのだが、その道のりは平坦ではなかった。著者は、本文の終わり近くに、感情をにじませた文を置いている。

一九世紀以降のヨーロッパでは、いわゆる反ユダヤ主義のもと、社会差別から始まり、法的差別、物理的迫害、さらには物理的抹殺へとエスカレートしていった。一度は迎え入れたユダヤ人を、近代国家は棄民としたのである(170ページ)

 ブログ執筆者は実に多くを学んだ。ただ、難解で理解しきれない箇所もあった。ユダヤ教の祈りに関するかしょなどだ。また、復活信仰がどこから生まれてきたのか、という疑問も残った。この本は、ユダヤ人とユダヤ教に関心を持つ人にとっては必読書と言える。しかし、一冊読めば分かるというほど、ユダヤは簡単ではない、ということだろう。

▼著者略歴(『ユダヤ人とユダヤ教』より)
1953年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は宗教史学、ユダヤ思想。著書に『ユダヤ教の歴史』『ユダヤ教の精神構造』。


▼目次

序章  ユダヤ人とは誰か

第1章  歴史から見る

第1節 古代のユダヤ人たち
第2節 イスラム世界からヨーロッパへ ほか
第3節 国民国家の中で

第2章  信仰から見る

第1節 ラビ・ユダヤ教
第2節 ユダヤ教の根本原則
第3節 神の時間秩序
第4節 「宗教」としてのユダヤ教

第3章 学問から見る

第1節 タルムードの学問
第2節 論争と対話
第3節 ユダヤ哲学
第4節 ユダヤ精神の探求

第4章  社会から見る

第1節 ユダヤ人の経済活動
第2節 ユダヤ人の人生の目標
第3節 近代メシア論
第4節 ユダヤ社会の現実

文献解題

あとがき



2019年3月16日土曜日

『世界史の誕生【モンゴルの発展と伝統】』(岡田英弘、ちくま文庫、1999年)について

◆「中国の歴史」の重さを相対化する◆


   今日の国際情勢を理解するために中国の歴史を勉強しなくてはならないーブログ執筆者が抱えてきた長年の強迫観念だった。

   それ自体は間違っていないと今でも思う。だが、以前持っていた「中国の歴史」についての思い込みは、岡田英弘によるこの本を読んで大きく修正された。「目から鱗が落ちる」とはこのことかと感じた。

    ずっしりとした重みを感じていた「中国の歴史」のイメージとはどのようなものだったか。岡田英弘の表現を借りれば「『正統』の皇帝中心の不変の世界の叙述」(109頁)である。中国というスペースがあって、そこで王朝が興亡を繰り返す。漢、隋、唐、明はおなじみだ。元はモンゴル族、清は満州族という異民族が支配した王朝だった。3世紀の三国鼎立といったややこしい時代もあった・・・

   この本は二重の意味で、こうした思い込みを打ち砕く。一つには中央ユーラシア高原に視点を置いたスケールの大きな叙述を通じて中国の歴史を相対化する。モンゴルが主役である。もう一つは、歴史とは何かを論じることによって、世間に流通する中国史の枠組みの限界を示す

   この本はいわば、〈モンゴル話〉と〈歴史談義〉という二つの柱からなっている。
出だしが強烈だ。「一二〇六年の春、モンゴル高原の片隅に遊牧民が集まって、チンギス・ハーンを自分たちの最高指導者に選挙したという事件」を描写して、次のように断じるのだ。

この事件は、世界史のなかで最大の事件であった。つまりこの事件が、世界史の始まりだったのである。(31頁)

   第4章から6章まで、中央ユーラシア高原を舞台としている。その中から〈モンゴル話〉の重要な主張が浮かび上がってくる。

中央ユーラシア草原では、六世紀以来、一連の遊牧帝国の系列が成長を続けて来て、とうとう十三世紀に至って、隋・唐の系列の中国のなごりを、完全に呑み込んでしまった(118頁)
元朝は、東アジアの多くの地域を統合した大帝国だったが、一番重要な地域はもちろんモンゴル高原で、中国は元朝の植民地の一つに過ぎなかった(119-120頁)
北の帝国の優勢は時とともに大きくなり、最後にモンゴル帝国が中国全体を呑みこんでしまう(184頁)

   中央ユーラシア高原が中国文明に与えた影響という観点は、このブログでもとりあげた梅棹忠夫の『文明の生態史観』と共通する。

   〈歴史談義〉の方もスケールが大きい。

   まず「歴史」が定義される。
歴史は単なる過去の記録ではない。
歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。(32頁)
   そして、時空を眺め回したかのように、こう告げる。
歴史のある文明よりも、歴史のない文明の方が、はるかに数が多い。
世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の二つだけである。(39頁)
地中海文明の「歴史の父」は、前五世紀のギリシャ人、ヘーロドトスである。(52頁)
ヘーロドトスが(中略)打ち出している見方は、世界はヨーロッパとアジアの二つにはっきり分かれ、ヨーロッパはアジアと、大昔から対立、抗争して来たものだ、という主張である(62頁)

   岡田英弘の筆はキリスト教の歴史観にも及ぶ。特に重視するのは、新訳聖書の最後に置かれる「ヨハネの黙示録」である

ヘーロドトスの対決の歴史観と、キリスト教の歴史観とは、きわめて重要な点で一致していた。それは、「ヨハネの黙示録」の、世界は善の原理と悪の原理の戦場である、という二元論である。(77-78頁)
   明治以降、西洋の学問の吸収に努めてきた日本では、歴史学においても西洋流が根を張っている。岡田英弘はだからこそ、まず西洋の歴史の原点であるヘーロドトスから〈歴史談義〉を始めたのだろう。

   西洋流の歴史観を切った上で、もう一方の中国流の歴史観に刃を向ける。

中国文明の「歴史の父」は、地中海世界のヘロードトスより三世紀半ほどの後の、前一〇〇年前後に『史記』を著した司馬遷である。(82頁)

   司馬遷を元祖とする中国の歴史記述の核心はどう表現されるか。

皇帝が統治する範囲が「天下」すなわち世界であり、「天下」だけが歴史の対象である。中国文明の歴史は、皇帝の歴史であり、永久に変わることのない「正統」の歴史である。(101頁)

   唐以降の中国で歴史記述の担い手となったのは、官僚登用制度、科挙の合格者だった。科挙のテキストは儒教である。それが故に、唐以後の「正史」には軍事面が軽視されるという欠点がある。

   〈歴史談義〉の本筋とは言えないが、韓国をウォッチしてきたブログ執筆者にとっては、朝鮮に決定的な影響を与えた朱子学についてのくだりも印象的だった。

道教は、仏教と儒教の教義を総合して、大きな体系を作り上げたが、それをそっくり借りて、術語だけを儒教の教典の熟字で置き換えたものが、宋代に興った新儒学、いわゆる宋学である。宋学を大成したのが、南宋時代に生きた朱熹(一一三〇~一二〇〇)であった。(228頁)

   ブログ執筆者は、朝鮮が封建制を経ていないことが現代の韓国、北朝鮮のお国柄に反映していると考えている。朝鮮半島にも封建制があったという言い方を見かけると首を傾げてきた。だから、岡田英弘が「封建」という用語を巡る混乱を指摘していたのは役に立った。

中国史の「封建」は、武装移民が新しい土地を占領して都市を建設することを意味する。それに対してヨーロッパ史の「フューダリズム」は、騎士が、一人または複数の君主と契約を結び、所領(フュード)の一部を手数料(フィー)として献上して、その見返りに保護を受けることを意味する。(257頁)

   以上、常識を突き崩す突破力を持った、岡田英弘の所論を紹介してきた。その語り口には天才に特有のきらめきがある。
と評価した上で、思わず「これははずしたな」と苦笑したかしょもあった。
社会主義が過ぎ去った後のロシアと中国では、資本主義はまず成功しないであろう(248頁)
   ロシアはさておいて、中国の膨張ぶりを目の当たりにする我々は、中国流の市場経済の成功を認めざるを得ない。

   岡田英弘自身、この本の中で「およそ学問というものは、未来の予知を究極の目的とする」(104頁)と述べている。歴史学も例外ではないのだ。先見というものは難しい。だが取り組まなくてはならない、と思う。


▼岡田英弘について(『世界史の誕生』著者略歴、読売新聞の記事などを参照)

歴史学者。1931年、東京に生まれる。2017年、死去。東京大学文学部東洋史学科を卒業。東京外語大学教授を務める。中国語、満州語、モンゴル語の知識を駆使し、独自の歴史観を提唱した。全8巻の著作集が藤原書店から刊行された。

▼『世界史の誕生』目次

第1章 1206年の天命―世界史ここに始まる
第2章 対決の歴史―地中海文明の歴史文化
第3章 皇帝の歴史―中国文明の歴史文化
第4章 世界史を創る草原の民
第5章 遊牧帝国の成長―トルコからキタイまで
第6章 モンゴル帝国は世界を創る
第7章 東洋史・西洋史から世界史へ


 

2019年3月9日土曜日

書評 『二つのコリア [第三版] 国際政治の中の朝鮮半島』(ドン・オーバードーファー、ロバート・カーリン、菱木一美訳、共同通信社、2015年)

◆韓国、北朝鮮と国際政治◆


 朝鮮半島情勢をウォッチしながら、幾度この本を読み返したことだろう。最新のできごとを国際政治の長期的動向の中に位置づけるのに、役に立つ本だ。

 題名の通り、韓国と北朝鮮の二つの朝鮮民族国家を扱う。それぞれの建国以来の政治の変動と、アメリカ、中国、ロシア、日本などが織りなす国際関係との間の相互作用が描かれる。

 初版から第三版までの変遷(この稿の末尾にまとめておく)はあるが、もっとも入手しやすい第三版に基づいて論じる。大きく分ければ、前半は建国期から東西冷戦終結までで、後半は北朝鮮の核開発が中心テーマだと言える。

 今日、朝鮮半島が注目されるのはもちろん、北朝鮮の核・ミサイル問題のためである。2017年にはアメリカと北朝鮮の間で軍事的緊張が高まった。過去の緊張の例を参考にしたい。それでこの本をひもといた。

 1994年の状況について、こんなくだりがある。

 1994年5月19日、ペリー国防長官、シャリカシュビリ統合参謀本部議長、ラック在韓米軍司令官がホワイトハウスで、クリントン大統領に説明した。「朝鮮半島で戦争が勃発すれば、最初の九十日間で米軍兵士の死傷者が五万二千人、韓国軍の死傷者が四十九万人に上る」(323頁)

 ああそうだったのか、と思った。この本はこんな風に役に立つのだ。

 2018年に北朝鮮の金正恩政権は対話攻勢に出た。朝鮮労働党の金正恩委員長の行動からは、祖父の金日成主席をロール・モデルとしているふしがうかがえる。それでこの本の前半を、金日成に注目しながら読み返した。

 1977年12月に金日成は、東ドイツの社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長の訪問を受けた。

 東ドイツ公文書館に保存されていた会談記録に残されていた金日成の発言が興味深い。金日成の韓国観を知る手がかりとなる。

彼は自分の国が多くは『米帝国主義』のためにさまざまな困難に直面していると認めながらも、自分の立場と主体(チュチェ)思想の優位性に絶大な自身を持っていた(112頁)
金日成は、最優先事項は国の統一であると強調した(112頁)

 トランプ米大統領が、在韓米軍を縮小したり、撤退させるのではないかと取り沙汰されてている。

 この問題との関連では、第4章「カーターの戦慄」が参考になる。ベトナム戦争終結後の1976年の米大統領選で当選したカーターが、真剣に在韓米軍撤退を志向していたことが分かる。米政府の幹部たちが多大な努力をして在韓米軍を維持する方向に政策をもっていった。

 著者ドン・オーバードーファーは、ベテラン記者である。朴正煕大統領から始まり、歴代韓国大統領にインタビューしている。北朝鮮を複数回、訪問したこともある。

 米有力紙の記者として歴々たるキャリアの持ち主だ。

 それでいて、謙虚さを備えている。  日本語版への序文で書いている。「北朝鮮について私には不明の部分があることを肝に銘じている」(19頁)

 ブログ執筆者は1998年、韓国の金大中大統領の訪米をカバーするためにワシントンに出張した。朝鮮半島情勢について意見を聞こうとオーバードーファー氏に会った。初対面である。

 オーバードーファー氏はこう切り出した。”How can I help you?”。親切な人だった。


▼『二つのコリア』第3版目次

第1章 野鳥さえずる非武装地帯
第2章 始まりの終わり
第3章 深まる苦悩
第4章 カーターの戦慄
第5章 暗殺とその余波
第6章 テロと対話
第7章 ソウルの民主化闘争
第8章 ソウル五輪、国際社会へのデビュー
第9章 モスクワの変心
第10章 立場を変えた中国
第11章 核問題への関与
第12章 脱退と関与
第13章 核兵器をめぐる対決
第14章 死去と合意
第15章 危機の北朝鮮
第16章 関与政策への転換
第17章 米朝枠組み合意の終焉
第18章 混迷の米韓同盟
第19章 裸の王様

▼著者略歴(『二つのコリア第三版』を参照して作成)

ドン・オーバードーファー (Don Oberdorfer)

 1968年から米紙ワシントン・ポストでホワイトハウスを担当した後、外交専門記者。72ー75年、北東アジア特派員として東京に駐在し、朝鮮半島情勢を取材。93年に退職後、ジョンズ・ホプキンス大学ポール・ニッツ高等国際問題研究大学院(SAIS)の特任研究員、後に特任教授。2015年死去。

ロバート・カーリン (Robert Carlin)

 1971年ー88年、米中央情報局(CIA)分析官。1989-2002年、国務省情報調査局北東アジア部長。1992年から2001年まで米朝交渉に携わった。2002年、朝鮮半島エネルギー開発機構 (KEDO) 事務局長の政治担当首席補佐官に就任。2006年からスタンフォード大学国際安全保障協力センター (CISAC) 客員研究員。

▼本の成り立ちについて(『二つのコリア 第三版』訳者あとがきによる)

 原本は、ドン・オーバードーファーの単著で、1997年に出版されたThe Two Koreas: A Contemporary Historyである。邦訳は1998年に出版された。

 2001年に、原本に新たな章(第16章)を追加した改訂版が出版された。この邦訳は『二つのコリア 特別最新版』だ。

 その後、オーバードーファーの依頼により、ロバート・カーリンが共著者として参画し、第17章~第19章を増補した。オリジナルの部分にも改訂が加えられた。こうしてできた改訂増補版が2014年に出版された。2015年には邦訳『二つのコリア 第三版』が刊行された。

 ブログ執筆者が読んだのは、1998年と2015年の2種の邦訳である。
1998年版の写真をつける。





2019年3月2日土曜日

『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中公叢書、1967年)を巡って

◆有用性が証明された歴史観◆


▼梅棹忠夫の本は役に立つ

    国際情勢をよりよく理解したいと思ってこの何十年間、多くの本を読んできた。

    役立つ本はある。「役立つ」とはどういうことか。事実(ファクト)を伝える本はそれなりに役に立つ。たとえば「ベトナム戦争の歴史を知りたい」という目的があれば、それに合った本がある。

    より抽象的な理論を書いた本は役に立つか。これは要注意だ。現実に当てはまらない理論を読むのは、時間の無駄である。もしくは、その理論に影響されれば有害である。現実に起きていることを曲解することになる。理論を現実にあてはめて検証し、現実からのフィードバックで修正する不断の作業が必要である。

    知識とか理論といった範疇を超えて、ものの見方を高みに引き上げてくれる本がある。ブログ執筆者にとって、梅棹忠夫はそういう本を生み出した人だ。拙著『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点    ベルリンの壁からメキシコの壁へ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)では「慧眼の持ち主」と表現した。

   半世紀以上前に出版された代表作『文明の生態史観』を再読した。梅棹忠夫の思考の有用性は時間の経過の中で証明されたとあらためて思う。

▼『文明の生態史観』

 「梅棹忠夫の文明の生態史観」を語る時、論文と、論文が収められた単行本を区別する必要がある。

 このユニークな文明論が最初に世に問われたのは1957年のことだ。すなわち「文明の生態史観序説」のタイトルで月刊誌「中央公論」1957年2月に掲載された。梅棹自身によると「序説」というのは雑誌側がつけたのであり、本人は完結性をもった論文だという自負を持っていた。

 この論文は大きな反響を呼んだ。梅棹はこの論文を跳躍台として、多彩な論考を執筆する。

 1967年に出版された単行本『文明の生態史観』は、論文「文明の生態史観序説」を中核にして、その先駆となった56年発表の論文、そして57年以降の諸論考をまとめたものだ。

 以上の経緯から明らかなように、論文「文明の生態史観序説」が核心をなしている。

 この本から重要な箇所を引用する。

「いままでのかんがえ方は、みんな文化の由来をもって日本の位置表示をおこなおうとしていた。(中略)わたしはここで、文化の機能論的な見方をみちびきいれたほうが、はなしが、いっそうはっきりするとおもう。それぞれの文化要素が、どのようにくみあわさり、どのようにはたらいているか、ということである」

 梅棹はここで「系譜論」から「機能論」への発想の転換を提唱している。彼自身の例えによれば、建築について、個々の材木が吉野杉であるか米松であるかをいうのが系譜論だ。機能論は、その建築が住宅であるのか学校であるのかを語る。

 現代日本の文化は、全体としてどういうデザインで設計されているのか。それは「高度の文明生活」、換言すれば「近代文明」だという。

「いちいち文明の特徴をあげるまでもないが、たとえば、巨大な工業力である。それから、全国にはりめぐらされたぼう大な交通通信網。完備した行政組織、教育制度。教育の普及、豊富な物資、生活水準の高さ。たかい平均年齢、ひくい死亡率。発達した学問、芸術。」

 日本は高度な文明国だという点を確認した上で、梅棹は「旧世界」(アジア、ヨーロッパおよび北アフリカ)を腑分けする。高度文明国になったのは、日本と、地理的には反対側にある西ヨーロッパの数か国だけだ。

 「旧世界を、ばっさり二つの地域にわけよう。それぞれを、第一地域、第二地域と名づけよう。(中略)第一地域の特徴は、その生活様式が高度の近代文明であることであり、第二地域の特徴は、そうでないことである」(82ー83頁)

 日本とヨーロッパは、いずれも第一地域である。

「わたしは、明治維新以来の日本の近代文明と、西欧近代文明との関係を、一種の平行進化とみている」(83頁)

 第二地域が遅れた地域で、第一地域が進んだ地域だと言うと、誤解を招く。そうした言い方だと、第二地域も時間が経てば第一地域の仲間入りすることになる。

 そうではない。なぜか。

 「わたしはつまり、第一地域と第二地域とでは、もともと、社会の構造がかなりちがうのだとかんがえている」(87頁)

 第一地域では、封建体制の中でブルジョアが育ち、革命によってブルジョアが実質的な支配権を握った。

「つまり第一地域というのは、封建体制のあった地域なのだ」(87頁)

 こうした世界観の下敷きとなっている理論のモデルとなっているのが「生態学理論」だ。生態学でいう「遷移(サクセッション)」の考え方を適用して、人間の共同体の生活様式の変化をとらえるのである。

 植物であれ、人間であれ、共同体の変化は次のように把握できる。

「一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する」(92頁)

 生態学は、主体と環境を一体のものとして観察する。

「要するに、サクセションという現象がおこるのは、主体と環境との相互作用の結果がつもりつもって、まえの生活様式ではおさまりきれなくなって、つぎの生活様式にうつるという現象である」(93頁)

 第一地域で、高度な文明までサクセションが進行できたのは、環境に恵まれていたからだ。

「そこは、めぐまれた地域だった。中緯度温帯。適度の雨量。たかい土地の生産力。(中略)何よりも、ここははしっこだった。中央アジア的暴力が、ここまでおよぶことはなかった」(96頁)

 第二地域では、第一地域のようなサクセションが起きなかった。ユーラシア大陸を東北から西南に斜めに横断する乾燥地帯の存在が大きい。

「乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯のまん中からあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのだろうか」(95頁)

「遊牧民はその破壊力の主流であり、そのお手本を提供したけれど、破壊力をふるうのは遊牧民とはかぎらない。そののち、乾燥地帯をめぐる文明社会そのものの中からも、猛烈な暴力が発生するにいたる」(95頁)

「第二地域の歴史は、だいたいにおいて、破壊と制服の歴史である」(95頁)

▼梅棹忠夫のすごさ

 梅棹は、上記の論文で近代における日本の文明と西欧の文明の間に「平行進化」を見出した。
 
 植物のサクセションに関する理論を、人間集団の生活様式の変化にあてはめた。
ブログ執筆者が考えるに、この二つの例が示すのは、梅棹の「結びつける」能力のすごさだ。既存の特定の学問の枠組みにこもっていないのである。

 見落としてはならないのは、梅棹が豊富なフィールドワークを行なっていたことだ。彼のユニークな思想は、けっして研究室の中で生まれたものではない。

▼生態史観の21世紀における意義

 梅棹が第一地域の特徴としてあげた高度な文明は、21世紀においては中国も達成しようとしているのではないか。

 表面的にはそう見える。だが、21世紀中国の文明はやはり第二地域の特色を持っている。そうした視角でとらえることが有効だと思う。第二地域のサクセションの一段階なのだ。

▼個人的な追記

 『文明の生態史観はいま』(梅棹忠夫編、中公叢書、2001年)で、梅棹が書いた次のくだりを読んだ時、心中で「ああ、そうだったのか」という感慨にとらわれた。

「わたしの著書『文明の生態史観』が刊行されてから約10年たった一九七八年に、月刊誌『現代の眼』の四月号に「生態史観と唯物史観」という論文が掲載された。著者は廣松渉氏である。廣松氏はマルクス主義哲学者としてひろく名をしられたひとで(以下略)」

「一九八七年二月二七日、廣松氏は夫人とともに国立民族学博物館にわたしをたずねてこられた。わたしたちは初対面であったが、食事をともにしながらおおいに歓談した。ふたりは学説をことにするとはいえ、一〇年の知己のようにたのしくかたりあった。廣松氏はまことにまじめな気もちのよい紳士であった」

 ブログ執筆者は大学当時、廣松渉先生の謦咳に接した。廣松先生が大教室で行った哲学概論の授業で、梅棹忠夫の生態史観に言及したことは記憶している。この二人にその後、こういう出会いがあったとは。


単行本『文明の生態史観』目次

東と西の間
東の文化・西の文化
文明の生態史観(雑誌掲載時の原題は「文明の生態史観序説」)
新文明世界地図―比較文明論へのさぐり
生態史観から見た日本
東南アジアの旅から―文明の生態史観・つづき
アラブ民族の命運
東南アジアのインド
「中洋」の国ぐに
タイからネパールまで―学問・芸術・宗教
比較宗教論への方法論的おぼえがき


梅棹忠夫について(2001年刊行の『文明の生態史観はいま』を参照した)

1920年京都市に生まれる。京都大学理学部卒。京都大学人文科学研究所教授、
国立民族学館長などを歴任。専攻は民族学、比較文明論。著書は、『文明の生態史観』『知的生産の技術』など多数。