2019年5月22日水曜日

書評 『ユダヤ人とユダヤ教』(市川裕、岩波新書、2019年)

◆「ユダヤ」の本流を描く◆


 読むことによって、自分がユダヤ人について持っていた断片的な知識や経験が核を得て、一つにまとまっていく。それほどの力を持った本だった。

 ブログ執筆者は、記者としてドイツ報道に携わった。ドイツのニュースを扱う上で、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺「ホロコースト」は避けて通れない。だから、ユダヤ人に関連した書籍も読んでいた。

 また、中東報道にも参加したことがあり、1990年代初頭には短期間ながらイスラエルに出張した。ユダヤ人がいかにしてイスラエルを建国したかについても勉強した。

 この本を読んで痛感した。「ホロコースト」、そしてイスラエルという国家の建設について知ることは、ユダヤ人を語る上で欠かせない。いずれも20世紀の大事件だ。しかし、それだけではユダヤ人を知ったことにはならないのだ。ユダヤ人の歴史は長く、多様である。

 全189ページの新書である。決して大冊ではない。章ごとに「歴史」「信仰」「学問」「社会」という4つの視点から、ユダヤ人とユダヤ教を解説している。

■中世のユダヤ人について学べる

 ブログ執筆者があらたな知識として習得したのは中世におけるユダヤ人に関する部分だ。

中世においてユダヤ人はイスラム世界に組み込まれることで、バビロニアを中心にユダヤ史のなかでも類をみない繁栄を享受することになる(15ページ)

ユダヤ教とイスラム教はともに中東を発祥の地とする宗教で、唯一神とその預言者を信仰する宗教共同体として独特な宗教集団を形成した(17ページ)

 ユダヤ教とイスラム教は単に中世において共存しただけでなく、重要な共通性があると気づいた。次のくだりを読んでである。

ユダヤ教の世界はキリスト教の世界とは異なり、「宗教」から切り離された世俗法の領域は存在しない(55ページ)

 著者市川裕さんは、「ラビ・ユダヤ教」という概念の重要性を強調する。「ラビと総称される律法学者によって構想され組織化されたユダヤ共同体の思想と実践」を指すという。(58ページ)

 「実践」という単語に意味がある。著者の視線はユダヤ人がいかに生きていたか、に向けられる。

 その「生きる」には「学ぶ」も含まれる。律法(唯一神の意志)の学習を「タルムード」と呼ぶ。学習はもともと口伝だったが、様々な書物が編纂されていく。最も重視される「バビロニア・タルムード」は西暦500年頃に成立した。

 「タルムード」を巡る記述はこの本の中の白眉と言えるだろう。書物としての「タルムード」には、あるラビの主張のあとには、別のラビによる違う主張が置かれている。学習は「かつてのラビたちがあたかも時空を超えて議論しているのを聴くかのように進められる」(108ー109ページ)。

■近代の「国民国家」の衝撃について考えさせられた

 18世紀後半のフランス革命と19世紀初頭のナポレオンの支配を経て、欧州は「国民国家」の時代に入る。(学生のみなさんへの注。「国民国家」については、森千春著『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点』23ー24ページに説明があります)

  近代におけるユダヤ人は「国民国家」の衝撃を受けて、独特の軌跡を描いた。ユダヤ人であることの意味合いが複雑化したとも言える。

 「国民国家」の形成は、その国に住むユダヤ人にとって、信教の自由と国民の一員としての地位を得たことを意味する。国民の一員であることは、国家に対してたとえば兵役などの義務を負うことでもある。住んでいる国家に忠誠を誓うとともに、ユダヤ教を信奉するという生き方が生まれた。

 別の道を志向する勢力もあった。ユダヤ人も民族として国家を持つべきだという運動である。

 著者の表現を引用すれば、「宗教としてのユダヤ」「民族としてのユダヤ」という二つの定義が並存するようになったのだ。

 民族として国家を持つという運動が20世紀に結実したのがイスラエル建国である。

 ユダヤ人は西欧では国民国家の一員となったのだが、その道のりは平坦ではなかった。著者は、本文の終わり近くに、感情をにじませた文を置いている。

一九世紀以降のヨーロッパでは、いわゆる反ユダヤ主義のもと、社会差別から始まり、法的差別、物理的迫害、さらには物理的抹殺へとエスカレートしていった。一度は迎え入れたユダヤ人を、近代国家は棄民としたのである(170ページ)

 ブログ執筆者は実に多くを学んだ。ただ、難解で理解しきれない箇所もあった。ユダヤ教の祈りに関するかしょなどだ。また、復活信仰がどこから生まれてきたのか、という疑問も残った。この本は、ユダヤ人とユダヤ教に関心を持つ人にとっては必読書と言える。しかし、一冊読めば分かるというほど、ユダヤは簡単ではない、ということだろう。

▼著者略歴(『ユダヤ人とユダヤ教』より)
1953年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は宗教史学、ユダヤ思想。著書に『ユダヤ教の歴史』『ユダヤ教の精神構造』。


▼目次

序章  ユダヤ人とは誰か

第1章  歴史から見る

第1節 古代のユダヤ人たち
第2節 イスラム世界からヨーロッパへ ほか
第3節 国民国家の中で

第2章  信仰から見る

第1節 ラビ・ユダヤ教
第2節 ユダヤ教の根本原則
第3節 神の時間秩序
第4節 「宗教」としてのユダヤ教

第3章 学問から見る

第1節 タルムードの学問
第2節 論争と対話
第3節 ユダヤ哲学
第4節 ユダヤ精神の探求

第4章  社会から見る

第1節 ユダヤ人の経済活動
第2節 ユダヤ人の人生の目標
第3節 近代メシア論
第4節 ユダヤ社会の現実

文献解題

あとがき