2019年3月16日土曜日

『世界史の誕生【モンゴルの発展と伝統】』(岡田英弘、ちくま文庫、1999年)について

◆「中国の歴史」の重さを相対化する◆


   今日の国際情勢を理解するために中国の歴史を勉強しなくてはならないーブログ執筆者が抱えてきた長年の強迫観念だった。

   それ自体は間違っていないと今でも思う。だが、以前持っていた「中国の歴史」についての思い込みは、岡田英弘によるこの本を読んで大きく修正された。「目から鱗が落ちる」とはこのことかと感じた。

    ずっしりとした重みを感じていた「中国の歴史」のイメージとはどのようなものだったか。岡田英弘の表現を借りれば「『正統』の皇帝中心の不変の世界の叙述」(109頁)である。中国というスペースがあって、そこで王朝が興亡を繰り返す。漢、隋、唐、明はおなじみだ。元はモンゴル族、清は満州族という異民族が支配した王朝だった。3世紀の三国鼎立といったややこしい時代もあった・・・

   この本は二重の意味で、こうした思い込みを打ち砕く。一つには中央ユーラシア高原に視点を置いたスケールの大きな叙述を通じて中国の歴史を相対化する。モンゴルが主役である。もう一つは、歴史とは何かを論じることによって、世間に流通する中国史の枠組みの限界を示す

   この本はいわば、〈モンゴル話〉と〈歴史談義〉という二つの柱からなっている。
出だしが強烈だ。「一二〇六年の春、モンゴル高原の片隅に遊牧民が集まって、チンギス・ハーンを自分たちの最高指導者に選挙したという事件」を描写して、次のように断じるのだ。

この事件は、世界史のなかで最大の事件であった。つまりこの事件が、世界史の始まりだったのである。(31頁)

   第4章から6章まで、中央ユーラシア高原を舞台としている。その中から〈モンゴル話〉の重要な主張が浮かび上がってくる。

中央ユーラシア草原では、六世紀以来、一連の遊牧帝国の系列が成長を続けて来て、とうとう十三世紀に至って、隋・唐の系列の中国のなごりを、完全に呑み込んでしまった(118頁)
元朝は、東アジアの多くの地域を統合した大帝国だったが、一番重要な地域はもちろんモンゴル高原で、中国は元朝の植民地の一つに過ぎなかった(119-120頁)
北の帝国の優勢は時とともに大きくなり、最後にモンゴル帝国が中国全体を呑みこんでしまう(184頁)

   中央ユーラシア高原が中国文明に与えた影響という観点は、このブログでもとりあげた梅棹忠夫の『文明の生態史観』と共通する。

   〈歴史談義〉の方もスケールが大きい。

   まず「歴史」が定義される。
歴史は単なる過去の記録ではない。
歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。(32頁)
   そして、時空を眺め回したかのように、こう告げる。
歴史のある文明よりも、歴史のない文明の方が、はるかに数が多い。
世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の二つだけである。(39頁)
地中海文明の「歴史の父」は、前五世紀のギリシャ人、ヘーロドトスである。(52頁)
ヘーロドトスが(中略)打ち出している見方は、世界はヨーロッパとアジアの二つにはっきり分かれ、ヨーロッパはアジアと、大昔から対立、抗争して来たものだ、という主張である(62頁)

   岡田英弘の筆はキリスト教の歴史観にも及ぶ。特に重視するのは、新訳聖書の最後に置かれる「ヨハネの黙示録」である

ヘーロドトスの対決の歴史観と、キリスト教の歴史観とは、きわめて重要な点で一致していた。それは、「ヨハネの黙示録」の、世界は善の原理と悪の原理の戦場である、という二元論である。(77-78頁)
   明治以降、西洋の学問の吸収に努めてきた日本では、歴史学においても西洋流が根を張っている。岡田英弘はだからこそ、まず西洋の歴史の原点であるヘーロドトスから〈歴史談義〉を始めたのだろう。

   西洋流の歴史観を切った上で、もう一方の中国流の歴史観に刃を向ける。

中国文明の「歴史の父」は、地中海世界のヘロードトスより三世紀半ほどの後の、前一〇〇年前後に『史記』を著した司馬遷である。(82頁)

   司馬遷を元祖とする中国の歴史記述の核心はどう表現されるか。

皇帝が統治する範囲が「天下」すなわち世界であり、「天下」だけが歴史の対象である。中国文明の歴史は、皇帝の歴史であり、永久に変わることのない「正統」の歴史である。(101頁)

   唐以降の中国で歴史記述の担い手となったのは、官僚登用制度、科挙の合格者だった。科挙のテキストは儒教である。それが故に、唐以後の「正史」には軍事面が軽視されるという欠点がある。

   〈歴史談義〉の本筋とは言えないが、韓国をウォッチしてきたブログ執筆者にとっては、朝鮮に決定的な影響を与えた朱子学についてのくだりも印象的だった。

道教は、仏教と儒教の教義を総合して、大きな体系を作り上げたが、それをそっくり借りて、術語だけを儒教の教典の熟字で置き換えたものが、宋代に興った新儒学、いわゆる宋学である。宋学を大成したのが、南宋時代に生きた朱熹(一一三〇~一二〇〇)であった。(228頁)

   ブログ執筆者は、朝鮮が封建制を経ていないことが現代の韓国、北朝鮮のお国柄に反映していると考えている。朝鮮半島にも封建制があったという言い方を見かけると首を傾げてきた。だから、岡田英弘が「封建」という用語を巡る混乱を指摘していたのは役に立った。

中国史の「封建」は、武装移民が新しい土地を占領して都市を建設することを意味する。それに対してヨーロッパ史の「フューダリズム」は、騎士が、一人または複数の君主と契約を結び、所領(フュード)の一部を手数料(フィー)として献上して、その見返りに保護を受けることを意味する。(257頁)

   以上、常識を突き崩す突破力を持った、岡田英弘の所論を紹介してきた。その語り口には天才に特有のきらめきがある。
と評価した上で、思わず「これははずしたな」と苦笑したかしょもあった。
社会主義が過ぎ去った後のロシアと中国では、資本主義はまず成功しないであろう(248頁)
   ロシアはさておいて、中国の膨張ぶりを目の当たりにする我々は、中国流の市場経済の成功を認めざるを得ない。

   岡田英弘自身、この本の中で「およそ学問というものは、未来の予知を究極の目的とする」(104頁)と述べている。歴史学も例外ではないのだ。先見というものは難しい。だが取り組まなくてはならない、と思う。


▼岡田英弘について(『世界史の誕生』著者略歴、読売新聞の記事などを参照)

歴史学者。1931年、東京に生まれる。2017年、死去。東京大学文学部東洋史学科を卒業。東京外語大学教授を務める。中国語、満州語、モンゴル語の知識を駆使し、独自の歴史観を提唱した。全8巻の著作集が藤原書店から刊行された。

▼『世界史の誕生』目次

第1章 1206年の天命―世界史ここに始まる
第2章 対決の歴史―地中海文明の歴史文化
第3章 皇帝の歴史―中国文明の歴史文化
第4章 世界史を創る草原の民
第5章 遊牧帝国の成長―トルコからキタイまで
第6章 モンゴル帝国は世界を創る
第7章 東洋史・西洋史から世界史へ


 

2019年3月9日土曜日

書評 『二つのコリア [第三版] 国際政治の中の朝鮮半島』(ドン・オーバードーファー、ロバート・カーリン、菱木一美訳、共同通信社、2015年)

◆韓国、北朝鮮と国際政治◆


 朝鮮半島情勢をウォッチしながら、幾度この本を読み返したことだろう。最新のできごとを国際政治の長期的動向の中に位置づけるのに、役に立つ本だ。

 題名の通り、韓国と北朝鮮の二つの朝鮮民族国家を扱う。それぞれの建国以来の政治の変動と、アメリカ、中国、ロシア、日本などが織りなす国際関係との間の相互作用が描かれる。

 初版から第三版までの変遷(この稿の末尾にまとめておく)はあるが、もっとも入手しやすい第三版に基づいて論じる。大きく分ければ、前半は建国期から東西冷戦終結までで、後半は北朝鮮の核開発が中心テーマだと言える。

 今日、朝鮮半島が注目されるのはもちろん、北朝鮮の核・ミサイル問題のためである。2017年にはアメリカと北朝鮮の間で軍事的緊張が高まった。過去の緊張の例を参考にしたい。それでこの本をひもといた。

 1994年の状況について、こんなくだりがある。

 1994年5月19日、ペリー国防長官、シャリカシュビリ統合参謀本部議長、ラック在韓米軍司令官がホワイトハウスで、クリントン大統領に説明した。「朝鮮半島で戦争が勃発すれば、最初の九十日間で米軍兵士の死傷者が五万二千人、韓国軍の死傷者が四十九万人に上る」(323頁)

 ああそうだったのか、と思った。この本はこんな風に役に立つのだ。

 2018年に北朝鮮の金正恩政権は対話攻勢に出た。朝鮮労働党の金正恩委員長の行動からは、祖父の金日成主席をロール・モデルとしているふしがうかがえる。それでこの本の前半を、金日成に注目しながら読み返した。

 1977年12月に金日成は、東ドイツの社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長の訪問を受けた。

 東ドイツ公文書館に保存されていた会談記録に残されていた金日成の発言が興味深い。金日成の韓国観を知る手がかりとなる。

彼は自分の国が多くは『米帝国主義』のためにさまざまな困難に直面していると認めながらも、自分の立場と主体(チュチェ)思想の優位性に絶大な自身を持っていた(112頁)
金日成は、最優先事項は国の統一であると強調した(112頁)

 トランプ米大統領が、在韓米軍を縮小したり、撤退させるのではないかと取り沙汰されてている。

 この問題との関連では、第4章「カーターの戦慄」が参考になる。ベトナム戦争終結後の1976年の米大統領選で当選したカーターが、真剣に在韓米軍撤退を志向していたことが分かる。米政府の幹部たちが多大な努力をして在韓米軍を維持する方向に政策をもっていった。

 著者ドン・オーバードーファーは、ベテラン記者である。朴正煕大統領から始まり、歴代韓国大統領にインタビューしている。北朝鮮を複数回、訪問したこともある。

 米有力紙の記者として歴々たるキャリアの持ち主だ。

 それでいて、謙虚さを備えている。  日本語版への序文で書いている。「北朝鮮について私には不明の部分があることを肝に銘じている」(19頁)

 ブログ執筆者は1998年、韓国の金大中大統領の訪米をカバーするためにワシントンに出張した。朝鮮半島情勢について意見を聞こうとオーバードーファー氏に会った。初対面である。

 オーバードーファー氏はこう切り出した。”How can I help you?”。親切な人だった。


▼『二つのコリア』第3版目次

第1章 野鳥さえずる非武装地帯
第2章 始まりの終わり
第3章 深まる苦悩
第4章 カーターの戦慄
第5章 暗殺とその余波
第6章 テロと対話
第7章 ソウルの民主化闘争
第8章 ソウル五輪、国際社会へのデビュー
第9章 モスクワの変心
第10章 立場を変えた中国
第11章 核問題への関与
第12章 脱退と関与
第13章 核兵器をめぐる対決
第14章 死去と合意
第15章 危機の北朝鮮
第16章 関与政策への転換
第17章 米朝枠組み合意の終焉
第18章 混迷の米韓同盟
第19章 裸の王様

▼著者略歴(『二つのコリア第三版』を参照して作成)

ドン・オーバードーファー (Don Oberdorfer)

 1968年から米紙ワシントン・ポストでホワイトハウスを担当した後、外交専門記者。72ー75年、北東アジア特派員として東京に駐在し、朝鮮半島情勢を取材。93年に退職後、ジョンズ・ホプキンス大学ポール・ニッツ高等国際問題研究大学院(SAIS)の特任研究員、後に特任教授。2015年死去。

ロバート・カーリン (Robert Carlin)

 1971年ー88年、米中央情報局(CIA)分析官。1989-2002年、国務省情報調査局北東アジア部長。1992年から2001年まで米朝交渉に携わった。2002年、朝鮮半島エネルギー開発機構 (KEDO) 事務局長の政治担当首席補佐官に就任。2006年からスタンフォード大学国際安全保障協力センター (CISAC) 客員研究員。

▼本の成り立ちについて(『二つのコリア 第三版』訳者あとがきによる)

 原本は、ドン・オーバードーファーの単著で、1997年に出版されたThe Two Koreas: A Contemporary Historyである。邦訳は1998年に出版された。

 2001年に、原本に新たな章(第16章)を追加した改訂版が出版された。この邦訳は『二つのコリア 特別最新版』だ。

 その後、オーバードーファーの依頼により、ロバート・カーリンが共著者として参画し、第17章~第19章を増補した。オリジナルの部分にも改訂が加えられた。こうしてできた改訂増補版が2014年に出版された。2015年には邦訳『二つのコリア 第三版』が刊行された。

 ブログ執筆者が読んだのは、1998年と2015年の2種の邦訳である。
1998年版の写真をつける。





2019年3月2日土曜日

『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中公叢書、1967年)を巡って

◆有用性が証明された歴史観◆


▼梅棹忠夫の本は役に立つ

    国際情勢をよりよく理解したいと思ってこの何十年間、多くの本を読んできた。

    役立つ本はある。「役立つ」とはどういうことか。事実(ファクト)を伝える本はそれなりに役に立つ。たとえば「ベトナム戦争の歴史を知りたい」という目的があれば、それに合った本がある。

    より抽象的な理論を書いた本は役に立つか。これは要注意だ。現実に当てはまらない理論を読むのは、時間の無駄である。もしくは、その理論に影響されれば有害である。現実に起きていることを曲解することになる。理論を現実にあてはめて検証し、現実からのフィードバックで修正する不断の作業が必要である。

    知識とか理論といった範疇を超えて、ものの見方を高みに引き上げてくれる本がある。ブログ執筆者にとって、梅棹忠夫はそういう本を生み出した人だ。拙著『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点    ベルリンの壁からメキシコの壁へ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)では「慧眼の持ち主」と表現した。

   半世紀以上前に出版された代表作『文明の生態史観』を再読した。梅棹忠夫の思考の有用性は時間の経過の中で証明されたとあらためて思う。

▼『文明の生態史観』

 「梅棹忠夫の文明の生態史観」を語る時、論文と、論文が収められた単行本を区別する必要がある。

 このユニークな文明論が最初に世に問われたのは1957年のことだ。すなわち「文明の生態史観序説」のタイトルで月刊誌「中央公論」1957年2月に掲載された。梅棹自身によると「序説」というのは雑誌側がつけたのであり、本人は完結性をもった論文だという自負を持っていた。

 この論文は大きな反響を呼んだ。梅棹はこの論文を跳躍台として、多彩な論考を執筆する。

 1967年に出版された単行本『文明の生態史観』は、論文「文明の生態史観序説」を中核にして、その先駆となった56年発表の論文、そして57年以降の諸論考をまとめたものだ。

 以上の経緯から明らかなように、論文「文明の生態史観序説」が核心をなしている。

 この本から重要な箇所を引用する。

「いままでのかんがえ方は、みんな文化の由来をもって日本の位置表示をおこなおうとしていた。(中略)わたしはここで、文化の機能論的な見方をみちびきいれたほうが、はなしが、いっそうはっきりするとおもう。それぞれの文化要素が、どのようにくみあわさり、どのようにはたらいているか、ということである」

 梅棹はここで「系譜論」から「機能論」への発想の転換を提唱している。彼自身の例えによれば、建築について、個々の材木が吉野杉であるか米松であるかをいうのが系譜論だ。機能論は、その建築が住宅であるのか学校であるのかを語る。

 現代日本の文化は、全体としてどういうデザインで設計されているのか。それは「高度の文明生活」、換言すれば「近代文明」だという。

「いちいち文明の特徴をあげるまでもないが、たとえば、巨大な工業力である。それから、全国にはりめぐらされたぼう大な交通通信網。完備した行政組織、教育制度。教育の普及、豊富な物資、生活水準の高さ。たかい平均年齢、ひくい死亡率。発達した学問、芸術。」

 日本は高度な文明国だという点を確認した上で、梅棹は「旧世界」(アジア、ヨーロッパおよび北アフリカ)を腑分けする。高度文明国になったのは、日本と、地理的には反対側にある西ヨーロッパの数か国だけだ。

 「旧世界を、ばっさり二つの地域にわけよう。それぞれを、第一地域、第二地域と名づけよう。(中略)第一地域の特徴は、その生活様式が高度の近代文明であることであり、第二地域の特徴は、そうでないことである」(82ー83頁)

 日本とヨーロッパは、いずれも第一地域である。

「わたしは、明治維新以来の日本の近代文明と、西欧近代文明との関係を、一種の平行進化とみている」(83頁)

 第二地域が遅れた地域で、第一地域が進んだ地域だと言うと、誤解を招く。そうした言い方だと、第二地域も時間が経てば第一地域の仲間入りすることになる。

 そうではない。なぜか。

 「わたしはつまり、第一地域と第二地域とでは、もともと、社会の構造がかなりちがうのだとかんがえている」(87頁)

 第一地域では、封建体制の中でブルジョアが育ち、革命によってブルジョアが実質的な支配権を握った。

「つまり第一地域というのは、封建体制のあった地域なのだ」(87頁)

 こうした世界観の下敷きとなっている理論のモデルとなっているのが「生態学理論」だ。生態学でいう「遷移(サクセッション)」の考え方を適用して、人間の共同体の生活様式の変化をとらえるのである。

 植物であれ、人間であれ、共同体の変化は次のように把握できる。

「一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する」(92頁)

 生態学は、主体と環境を一体のものとして観察する。

「要するに、サクセションという現象がおこるのは、主体と環境との相互作用の結果がつもりつもって、まえの生活様式ではおさまりきれなくなって、つぎの生活様式にうつるという現象である」(93頁)

 第一地域で、高度な文明までサクセションが進行できたのは、環境に恵まれていたからだ。

「そこは、めぐまれた地域だった。中緯度温帯。適度の雨量。たかい土地の生産力。(中略)何よりも、ここははしっこだった。中央アジア的暴力が、ここまでおよぶことはなかった」(96頁)

 第二地域では、第一地域のようなサクセションが起きなかった。ユーラシア大陸を東北から西南に斜めに横断する乾燥地帯の存在が大きい。

「乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯のまん中からあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのだろうか」(95頁)

「遊牧民はその破壊力の主流であり、そのお手本を提供したけれど、破壊力をふるうのは遊牧民とはかぎらない。そののち、乾燥地帯をめぐる文明社会そのものの中からも、猛烈な暴力が発生するにいたる」(95頁)

「第二地域の歴史は、だいたいにおいて、破壊と制服の歴史である」(95頁)

▼梅棹忠夫のすごさ

 梅棹は、上記の論文で近代における日本の文明と西欧の文明の間に「平行進化」を見出した。
 
 植物のサクセションに関する理論を、人間集団の生活様式の変化にあてはめた。
ブログ執筆者が考えるに、この二つの例が示すのは、梅棹の「結びつける」能力のすごさだ。既存の特定の学問の枠組みにこもっていないのである。

 見落としてはならないのは、梅棹が豊富なフィールドワークを行なっていたことだ。彼のユニークな思想は、けっして研究室の中で生まれたものではない。

▼生態史観の21世紀における意義

 梅棹が第一地域の特徴としてあげた高度な文明は、21世紀においては中国も達成しようとしているのではないか。

 表面的にはそう見える。だが、21世紀中国の文明はやはり第二地域の特色を持っている。そうした視角でとらえることが有効だと思う。第二地域のサクセションの一段階なのだ。

▼個人的な追記

 『文明の生態史観はいま』(梅棹忠夫編、中公叢書、2001年)で、梅棹が書いた次のくだりを読んだ時、心中で「ああ、そうだったのか」という感慨にとらわれた。

「わたしの著書『文明の生態史観』が刊行されてから約10年たった一九七八年に、月刊誌『現代の眼』の四月号に「生態史観と唯物史観」という論文が掲載された。著者は廣松渉氏である。廣松氏はマルクス主義哲学者としてひろく名をしられたひとで(以下略)」

「一九八七年二月二七日、廣松氏は夫人とともに国立民族学博物館にわたしをたずねてこられた。わたしたちは初対面であったが、食事をともにしながらおおいに歓談した。ふたりは学説をことにするとはいえ、一〇年の知己のようにたのしくかたりあった。廣松氏はまことにまじめな気もちのよい紳士であった」

 ブログ執筆者は大学当時、廣松渉先生の謦咳に接した。廣松先生が大教室で行った哲学概論の授業で、梅棹忠夫の生態史観に言及したことは記憶している。この二人にその後、こういう出会いがあったとは。


単行本『文明の生態史観』目次

東と西の間
東の文化・西の文化
文明の生態史観(雑誌掲載時の原題は「文明の生態史観序説」)
新文明世界地図―比較文明論へのさぐり
生態史観から見た日本
東南アジアの旅から―文明の生態史観・つづき
アラブ民族の命運
東南アジアのインド
「中洋」の国ぐに
タイからネパールまで―学問・芸術・宗教
比較宗教論への方法論的おぼえがき


梅棹忠夫について(2001年刊行の『文明の生態史観はいま』を参照した)

1920年京都市に生まれる。京都大学理学部卒。京都大学人文科学研究所教授、
国立民族学館長などを歴任。専攻は民族学、比較文明論。著書は、『文明の生態史観』『知的生産の技術』など多数。