2019年2月23日土曜日
映像作品紹介「ベトナム戦争の記録」(ケン・バーンズ&リン・ノービック監督、Florentine Films Production、2017年)
◆ベトナム戦争の全体像を知る◆
全10回で計約18時間のドキュメンタリー作品。原題はTHE VIETNAM WAR。アメリカのPBS放送で2017年に放映された。ブログ執筆者はNetflixで視聴した。日本語の字幕がついていた。
トランプ大統領の登場以降、メディアで「アメリカの分断」について報じられることが多い。「ちょっと待てよ。ベトナム戦争の時のアメリカも分断されていたのではなかったか」と疑問を抱き、この戦争について勉強し直さなければと思っていた。そんな時にNetflixでこの作品に出会った。
実にありがたい、役に立つ作品だった。これを観たことで、断片的だった知識やイメージが一つにまとまった感じがする。
アメリカ人監督の作品でアメリカの放送局で放映された作品であり、戦争の状況に加えて、アメリカ本土の政治・社会も丁寧に描いている。放映された年は戦争終結後42年にあたる。歳月を置いたからこそ、ベトナム戦争という巨大なできごとの全体像を描くことが可能だったのだろう。
この映画の素材は、当時の記録映像とこの作品のために行ったインタビューだ。
ベトナム戦争はテレビの影響力が最大限に発揮された戦争だった。米軍はテレビ局の取材に便宜をはかった。テレビカメラは文字通り戦場を映した。ドキュメンタリーを製作するには、この豊富な映像資料が役に立ったはずだ。
だが単にできあいの映像をつなげただけではない。PBSの資料によると、この映画には80人に対するインタビューが使われている。大別すれば米国人とベトナム人。ベトナム人は戦争当時は南と北の分断国家のいずれかに住んでいた。
インタビューを受けるのは現場にいた人々だ。アメリカ軍兵士、戦死した兵士の家族、北ベトナム軍人、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)兵士、南ベトナム軍人、そして一般市民が登場する。この人選が作品にバランス感覚をもたらしたのだと思う。1人1人に時間をかけてじっくり話を聞いたうえで、エッセンスを取り出したのだろう。
この作品はいわば記録映像を横糸に、インタビューを縦糸にして、ベトナム戦争の絵を織り上げたと言えよう。
ケン・バーンズ(Ken Burns)監督は、アメリカのドキュメンタリー映像作家で、南北戦争をあつかったTHE CIVIL WAR(1990年)などの作品がある。
戦争の記録は必然的に人間の死を語る。シリーズの冒頭に数字が出てくる。米兵5万8千人死亡。南ベトナム軍兵士は少なくとも25万人死亡、北ベトナム軍・ベトコンの死者は100万人を超える。南北合わせて200万人の一般市民が犠牲になった。
以下、各回の内容を紹介する。作品を見た際にとったメモが基になっている。作品の構成を知る一助としたい。ブログ執筆者にとって特に興味深かった点を手厚く書く。次の2冊を参照した。
三野正洋『わかりやすいベトナム戦争』(光人社、1999年)
小倉貞男『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』(岩波現代文庫、2005年)
各回は時系列順に並んでいる。回数の次に書く西暦は、その回が扱っている時期を指す。
▼第1回 1858ー1961年
この回はいわばベトナム戦争の前史である。19世紀後半からのベトナムの歴史の概略が語られる。
押さえておくべきことはベトナムはフランスの植民地支配を受けていたことだ。そして独立運動の指導者、ホー・チ・ミンが登場する。
ブログ執筆者は、少年期にベトナム戦争報道に接した。そこからアメリカと北ベトナムが戦争しており、ホー・チ・ミンは北ベトナムの指導者だという図式が頭に焼き付いている。それは間違いではない。
しかしこの回を見て、第2次世界大戦当時のベトナムを取り巻く図式は流動的であったことを学んだ。
欧州で第2次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに敗れた。当時フランスの植民地だったインドシナ(ベトナムを含む)には日本軍が進駐した。
1941年には「ベトミン」が結成される。共産党が中心になり、民族主義者も糾合した独立運動の統一組織だ。
興味深いのは、第2次世界大戦中、そして大戦直後には、アメリカとベトミン、ホー・チ・ミンの距離は意外なほど近かったことだ。
アメリカの情報機関OSSは、戦争中にベトミンと接触した。日本が正式に降伏した1945年9月2日、ホー・チ・ミンがハノイの集会で独立を宣言した。演説の中で、アメリカの建国の父の1人、ジェファーソンの “All men are created equal”(すべての人間は生まれながらに平等である) という言葉を引用した。
大戦に勝利した連合国側は、ベトナムの北部を中国国民党軍の監視下におくと定めた。南部については、当初は英印軍が統括し、1945年秋にフランス軍がとって替わった。
ブログ執筆者は、分断国家に関心があるので、この1945年のできごとが、南北ベトナム分断のスタートとして重要だと考える。
フランスがベトナムの支配を放棄しなかったことが分断の固定化につながる。ベトミンは1954年にディエンビエンフーの戦いで大勝した。その結果、結ばれたジュネーブ協定(1954年)で、ベトミンは緯度17度線の北部、フランス軍は南部へと分けられた。
フランス軍は翌1955年に完全撤退したが、南部ではゴ・ジエムなる人物が大統領選で当選し、1955年に「ベトナム共和国」(以下「南ベトナム」と表記する)が発足する。北部ではホー・チ・ミンが率いる「ベトナム民主共和国」(「北ベトナム」)が確立していた。
問題はアメリカの動向である。アメリカはベトナムで、中立的な立場をとるのではなく、フランスを肩がわりして南ベトナム支援へと傾斜していく。なぜか。1950年に勃発し1953年まで続いた朝鮮戦争が大きな影響を及ぼした。
朝鮮戦争では、ソ連、中国の支援を受けた北朝鮮が韓国に侵攻した。米国が軍事介入して、韓国を滅亡の危機から救った。
朝鮮戦争を受けて、米国のアジア政策は、共産主義の拡大をくいとめると課題を優先するようになったのだ。共産主義の北ベトナムは脅威であり、南ベトナムは守るべき対象となった。
1960年に南ベトナム解放戦線(略称NLF)が結成される。その軍事部門がベトコンと呼ばれた。
ベトコンと北ベトナムの関係をどうとらえるかは、戦争当時の報道の争点だったが、ここでは立ち入らない。北ベトナムが主導的だったという立場から記述する。
▼第2回 1961ー63年
この回で扱われる期間は、ベトナム戦争の初期と言えるだろう。ゴ・ジエム政権の南ベトナム軍とベトコンが戦った。
アメリカでは、1961年にジョン・F・ケネディ大統領が就任した。ケネディは63年に暗殺されたので、この回はケネディ政権期を扱ったとも言える。
アメリカ軍が直接、戦闘することはなかったが、南ベトナムに軍事顧問を送っていた。南ベトナム支援という形で、アメリカは次第にベトナムに足をとられていく。
南ベトナムはベトコンの勢力拡大に悩んでいた。アメリカの発案で、ベトコンの浸透をシャットアウトした「戦略村」設置を試したが、農民の間では不人気だった
1963年に南ベトナムでクーデターが起きて、ジエムは射殺された。
一方、北ベトナムでは、労働党(共産党)の強硬派であるレ・ズアンが次第に実権を握っていく。
この回にはUPI記者だったニール・シーハン氏がインタビューで登場する。のちにニューヨークタイムズに移り、「ペンタゴンペーパー」という機密文書をスクープしたことで知られる。(このスクープは第9回で扱われる)
▼第3回 1964年1月ー1965年12月
この回でついにアメリカはベトナムに直接的な軍事介入に踏み切る。アメリカの大統領はケネディの副大統領だったジョンソンだ。
ブログ執筆者が驚いたのは、ジョンソンとマクナマラ国防長官、バンディ国家安全保障問題担当大統領補佐官、ウェストモーランド将軍ら政権・軍の幹部との電話会話が流されることだ。どういう経緯で録音され、公開されたのか知りたいところだ。
一連の電話会話からはっきり伝わってくるのは、ジョンソン大統領がベトナムへの介入をためらっていたことだ。南ベトナムを支えられるのか。とても確信は持てなかったようだ。
1964年にいわゆるトンキン湾事件が発生する。アメリカの駆逐艦が、北ベトナムの魚雷艇から攻撃を受けたとされる事件だ。ジョンソン大統領は報復として北ベトナムへの空爆を命じた。アメリカの議会はトンキン湾決議を採択して、大統領に戦争権限を与えた。
1965年3月、アメリカの海兵隊が南ベトナム・ダナンに上陸した。地上軍の投入である。
アメリカはついに一線を越えたのだ。
北ベトナムは、米軍のプレゼンスが増す前に、北ベトナム軍を南ベトナムに送り込む。
▼第4回 1966年1月ー1967年6月
▼第5回 1967年7月ー1967年12月
第4回、第5回が扱う時期、米国は大量の兵力をベトナムに送ったにも関わらず、戦争に勝利することはできなかった。
マクナマラ国防長官は、合理的な思考に基づき戦略を立てた。敵も同様に合理的に考えるという前提に立っていた。ベトナムの現実にマクナマラ路線は行き詰まる。国防長官はクリフォードに交代する。
米兵の戦死者は増加し、米国内ではベトナム戦争への疑問の声があがる。
北ベトナムは、ラオス、カンボジアを通るホーチミンルートを使って、南ベトナムに軍事物資を運んでいた。
▼第6回 1968年1月ー1968年7月
ブログ執筆者にとって、もっとも印象深かった回だ。
一つには「テト攻勢」という転換点を扱っているからだ。もう一つの理由は、映像の衝撃力にある。
テト攻勢は、北ベトナムが1968年1月末のテト(旧正月)に開始した作戦だ。南ベトナムの多数の都市を攻撃した。北ベトナムの労働党内では、レ・ズアンがテト攻勢を主導した。
北ベトナム側がテト攻勢に踏み切った背景は、南ベトナムの人民が蜂起するだろう、そして南ベトナム軍からも離反がおきてこちら側に寝返るだろうという読みがあった。
北ベトナム・ベトコンによる同時多発的な攻撃は、南ベトナム、アメリカ軍に衝撃を与えた。しかし、共産主義勢力に懐疑的な南ベトナムの一般国民の蜂起は起きなかったし、南ベトナム軍が部隊単位で寝返ることもなかった。
軍事的な観点から言えば、テト攻勢は失敗に終わった。
しかし、政治的にはアメリカは大打撃をこうむった。米国のテレビがベトナム現地の「暴力と破壊の映像」を大量に放映して、国民に衝撃を与えたのだ。
南ベトナムの首都サイゴンでは、ベトコンがアメリカ大使館に侵入して、一時占拠した。大使館に居合わせたテレビクルーによると思われる映像は、ベトコンとの銃撃戦を伝えた。
米NBC放送の記者は、サイゴンの路上で、銃撃をさけて身を横たえた状態で中継する。自分のズボンに血がにじんでいるといい「どうも撃たれたようです」と語る。
アメリカ世論へのダメージという面で決定的な映像があった。テト攻勢の最中に、南ベトナムの警察庁長官が、ベトコン容疑者を、路上で、報道陣の目の前で射殺したのだ。アメリカの新聞、テレビは大きく報道した。
アメリカ国民の疑問はふくらんだ。政府高官が裁判もなしに容疑者を公開処刑する。こんなひどい体制を、アメリカが兵士の命を犠牲にして支える大義があるのかと。
おそらくベトナム戦争が終わってから明らかになった北ベトナム側の蛮行もあった。
激戦地となった古都フエで起きた。テト攻勢で一時、北ベトナム側が占領した。市街戦を経て米軍側が奪回する。北ベトナムの勢力は撤退する時に、「敵側」と見なした市民多数を集団処刑した。犠牲者の数は2800人以上だという。
▼第7回 1968年6月ー1969年5月
▼第8回 1969年4月ー1970年5月
この回では、アメリカがベトナム戦争での勝利を諦め、ベトナムから手を引こうとし始める過程が描かれる。
1968年の大統領選挙では、共和党のニクソンが当選した。停戦への予備交渉として、アメリカ、南ベトナム、北ベトナム、ベトコンによる「円卓会議」がパリで始まる。
1960年代末のアメリカは揺れていた。反戦、反黒人差別、環境、女性ーこうしたテーマを巡り運動が盛り上がり、対立や分断が社会を揺るがした。
「ソンミ」におけるアメリカ兵による住民虐殺事件が明るみに出た。日本でも広く知られた出来事だ。
アメリカで、北ベトナムの捕虜になった兵士の返還をもとめる運動が広がりを見せたことも見逃せない。アメリカ人は政治的な立場の違いを超えて、基本的に軍、兵士に敬意を抱き、大切に思うのだろう。だからこそ南ベトナムを支えるために兵士の命を失ってよいのか、という議論が痛切だったのだろう。
1969年9月2日には、北ベトナムのホー・チ・ミンが死去した。それ以前から実権を握っていたレ・ズアンは、南ベトナムでの攻勢を繰り返した。
第7回で紹介される日系人のアメリカ軍人、オカモト中尉のエピソードは、日本人としては心に響くものがあった。
▼第9回 1970年5月ー1973年3月
▼第10回 1973年3月ー
この2回では、米軍が撤退し、北ベトナムが軍事力で南ベトナムを崩壊させ、統一を達成する。
米軍撤退を可能にしたのが、1973年にパリで締結された和平協定だった。
米軍撤退、米軍捕虜釈放という二つがニクソン政権が追求し、実現したものだった。協定は、恒久的な南北の平和共存にはつながらなかった。
1975年4月、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを攻略し、戦争は終結する。
2019年2月9日土曜日
書評 『朝鮮の政治社会』(グレゴリー・ヘンダーソン、鈴木沙雄・大塚喬重訳、サイマル出版会、1973年)
◆韓国政治を論じた記念碑的著作◆
大学の講義で韓国の政治をとりあげると、学生からよく寄せられる質問がある。「どうして韓国では大統領を務めた人が次々とスキャンダルにみまわれたり、逮捕されたりするのか」
1980年代後半に民主化した韓国は、経済も発展し、世界トップ10に入る輸出大国となった。だが、政治は安定しない。激しい政争が繰り返される。歴代の大統領経験者が国民から広く敬意をもたれるわけでもない。
韓国政治の特徴は何なのか。その原因はどこにあるのか。こうした問いを抱く者にとって、この本は読みがいのある労作である。
原著は、 KOREA: The Politics of the Vortexという。vortexとは渦巻を意味する。より原語に忠実にタイトルをつければ「渦巻の政治」となるだろう。1968年にHarvard University Pressから出版された。日本語版はその5年後に出ている。
内容は古びていない。今日の韓国政治を考察する際にも十分に役に立つ。
韓国の政治を、著者グレゴリー・ヘンダーソンは、「渦巻の政治」と表現した。著者の思考が端的に表現された部分を序説から引用する。
「朝鮮の政治力学の法則は、社会のあらゆる活動的分子を、権力の中心へ吸い上げる一つの強力な渦巻にたとえられよう。(中略)垂直的圧力には反作用がかからない。というのは渦巻の形成を妨げ、あるいはすでに形成された渦巻を制止できる、地方のまたは独立した集団が存在しないからである」(5頁)
この本の価値のかなりの部分は「渦巻」という表現の巧みさにある。韓国政治の特徴を上手にとらえている。
引用した箇所の最後のセンテンスも重要だ。どうして「渦巻」のような現象がおきるのかを説明している。渦巻きを制止するような地方の集団、独立した集団が存在しないと言う。
これには歴史的な背景がある。14世紀に始まり日本による植民地化でおわった李氏朝鮮は、中央集権だった。朝鮮は、日本や欧州のように封建制を経ていない。「朝鮮には、日本やヨーロッパ社会を特徴づける武具師、染め物師、商人や専門化、位階制組織、忠誠心などを発達させた城下町や、ギルド、商港、商人社会は確立されなかった」(235頁)という指摘は重要だ。
20世紀後半の韓国政治の源流を求めて、李氏朝鮮の歴史にさかのぼる。こうした視野の大きさがこの本の特徴だと言える。こうした雄大な構えは、著者の経歴に根ざしている。
ヘンダーソンは、韓国語ができる米国の外交官として、1948年7月にソウルに赴任した。「大韓民国」建国の直前のタイミングだ。50年10月までの勤務で、李承晩政権の混乱ぶり、そして朝鮮戦争勃発まで経験したことになる。2度目の韓国勤務は1958年5月から63年3月まで。今度は、「学生革命」による李承晩政権の崩壊と朴正熙らによる軍事クーデターを現地で観察した。
激動期は民族や国家が持つ性格を露呈する。著者は韓国ウォッチャーとして実に豊富で貴重な見聞を積んだに違いない。その上で1963年に大学での研究生活に入った。生々しい体験から得た直観を、歴史学や政治学の成果を参照しつつ掘り下げ、より広い文脈の中で位置づけていった。その営々たる努力の成果がこの本だ。
ブログ執筆者にとって、2000年に出会った懐かしい1冊だ。4月の国会議員選挙を前に、市民団体による「落選運動」が猛威をふるっていた。そのさなかに、韓国の公共放送KBSの朴権相社長と会った。東亜日報出身の高名なジャーナリストである朴氏が、この本を読むことを薦めてくれた。
おかげで気づいたことがある。韓国政治をフォローしているプロたち、すなわち学者やジャーナリストの間では、「渦巻」と言うだけで、この本をふまえた表現だと理解される
のだ。日本人同士だけでなく、韓国人の専門家相手にも同様の経験をした。その筋では、よく知られた本なのだ。
にもかかわらずこのブログを書いている時点(2019年2月)で、この本が絶版となっているのは残念だ。復刻する価値のある重要な著作だと思う。
著者について(この本の著者紹介・第二版訳者まえがき、ニューヨークタイムズ1988年10月18日付による)
グレゴリー・ヘンダーソン (Gregory Henderson)
1922年生まれ。マサチューセッツ州出身。43年ハーバード大学卒業。在学中に日本語を学び、海兵隊の語学将校になり、サイパンなどの戦闘に参加。47年国務省入り。韓国駐在は2回、計7年に及ぶ。63年ハーバード大学国際問題センター客員研究員。以後、タフツ大学などで研究を行う。1988年死去。
目次
朝鮮政治の近代化とその力学ー序説
1部 社会的同質性と中央集中化ー渦巻パターンの源泉
1 単極磁場ー中央志向の土壌
2 伝統的な社会ー維持の背景
2部 朝鮮政治の弁証法ー渦巻パターンの検証
1 近代的政治動員の発端ー李朝最後の五〇年
2 全体主義的植民政策ー日本の朝鮮統治
3 分裂と抗争の復活ー米軍占領下の朝鮮
4 民主主義の流産ー李承晩から朴正煕まで
3部 朝鮮的政治風土の構造ー渦巻パターンの力学
1 中央集権化と政治の流動化
2 機能と機構の拡散ー朝鮮文化固有の基盤
3 派閥主義と評議機関の機能
4部 政治的凝集の探求ー渦巻パターンの解体
1 政党ー無力なエリート集団
2 共産主義ー南北異なる効用
3 軍部ー改革の中核へ
4 多元化社会の可能性ー地方政権に権力分散を
(写真は1997年の第2版)
大学の講義で韓国の政治をとりあげると、学生からよく寄せられる質問がある。「どうして韓国では大統領を務めた人が次々とスキャンダルにみまわれたり、逮捕されたりするのか」
1980年代後半に民主化した韓国は、経済も発展し、世界トップ10に入る輸出大国となった。だが、政治は安定しない。激しい政争が繰り返される。歴代の大統領経験者が国民から広く敬意をもたれるわけでもない。
韓国政治の特徴は何なのか。その原因はどこにあるのか。こうした問いを抱く者にとって、この本は読みがいのある労作である。
原著は、 KOREA: The Politics of the Vortexという。vortexとは渦巻を意味する。より原語に忠実にタイトルをつければ「渦巻の政治」となるだろう。1968年にHarvard University Pressから出版された。日本語版はその5年後に出ている。
内容は古びていない。今日の韓国政治を考察する際にも十分に役に立つ。
韓国の政治を、著者グレゴリー・ヘンダーソンは、「渦巻の政治」と表現した。著者の思考が端的に表現された部分を序説から引用する。
「朝鮮の政治力学の法則は、社会のあらゆる活動的分子を、権力の中心へ吸い上げる一つの強力な渦巻にたとえられよう。(中略)垂直的圧力には反作用がかからない。というのは渦巻の形成を妨げ、あるいはすでに形成された渦巻を制止できる、地方のまたは独立した集団が存在しないからである」(5頁)
この本の価値のかなりの部分は「渦巻」という表現の巧みさにある。韓国政治の特徴を上手にとらえている。
引用した箇所の最後のセンテンスも重要だ。どうして「渦巻」のような現象がおきるのかを説明している。渦巻きを制止するような地方の集団、独立した集団が存在しないと言う。
これには歴史的な背景がある。14世紀に始まり日本による植民地化でおわった李氏朝鮮は、中央集権だった。朝鮮は、日本や欧州のように封建制を経ていない。「朝鮮には、日本やヨーロッパ社会を特徴づける武具師、染め物師、商人や専門化、位階制組織、忠誠心などを発達させた城下町や、ギルド、商港、商人社会は確立されなかった」(235頁)という指摘は重要だ。
20世紀後半の韓国政治の源流を求めて、李氏朝鮮の歴史にさかのぼる。こうした視野の大きさがこの本の特徴だと言える。こうした雄大な構えは、著者の経歴に根ざしている。
ヘンダーソンは、韓国語ができる米国の外交官として、1948年7月にソウルに赴任した。「大韓民国」建国の直前のタイミングだ。50年10月までの勤務で、李承晩政権の混乱ぶり、そして朝鮮戦争勃発まで経験したことになる。2度目の韓国勤務は1958年5月から63年3月まで。今度は、「学生革命」による李承晩政権の崩壊と朴正熙らによる軍事クーデターを現地で観察した。
激動期は民族や国家が持つ性格を露呈する。著者は韓国ウォッチャーとして実に豊富で貴重な見聞を積んだに違いない。その上で1963年に大学での研究生活に入った。生々しい体験から得た直観を、歴史学や政治学の成果を参照しつつ掘り下げ、より広い文脈の中で位置づけていった。その営々たる努力の成果がこの本だ。
ブログ執筆者にとって、2000年に出会った懐かしい1冊だ。4月の国会議員選挙を前に、市民団体による「落選運動」が猛威をふるっていた。そのさなかに、韓国の公共放送KBSの朴権相社長と会った。東亜日報出身の高名なジャーナリストである朴氏が、この本を読むことを薦めてくれた。
おかげで気づいたことがある。韓国政治をフォローしているプロたち、すなわち学者やジャーナリストの間では、「渦巻」と言うだけで、この本をふまえた表現だと理解される
のだ。日本人同士だけでなく、韓国人の専門家相手にも同様の経験をした。その筋では、よく知られた本なのだ。
にもかかわらずこのブログを書いている時点(2019年2月)で、この本が絶版となっているのは残念だ。復刻する価値のある重要な著作だと思う。
著者について(この本の著者紹介・第二版訳者まえがき、ニューヨークタイムズ1988年10月18日付による)
グレゴリー・ヘンダーソン (Gregory Henderson)
1922年生まれ。マサチューセッツ州出身。43年ハーバード大学卒業。在学中に日本語を学び、海兵隊の語学将校になり、サイパンなどの戦闘に参加。47年国務省入り。韓国駐在は2回、計7年に及ぶ。63年ハーバード大学国際問題センター客員研究員。以後、タフツ大学などで研究を行う。1988年死去。
目次
朝鮮政治の近代化とその力学ー序説
1部 社会的同質性と中央集中化ー渦巻パターンの源泉
1 単極磁場ー中央志向の土壌
2 伝統的な社会ー維持の背景
2部 朝鮮政治の弁証法ー渦巻パターンの検証
1 近代的政治動員の発端ー李朝最後の五〇年
2 全体主義的植民政策ー日本の朝鮮統治
3 分裂と抗争の復活ー米軍占領下の朝鮮
4 民主主義の流産ー李承晩から朴正煕まで
3部 朝鮮的政治風土の構造ー渦巻パターンの力学
1 中央集権化と政治の流動化
2 機能と機構の拡散ー朝鮮文化固有の基盤
3 派閥主義と評議機関の機能
4部 政治的凝集の探求ー渦巻パターンの解体
1 政党ー無力なエリート集団
2 共産主義ー南北異なる効用
3 軍部ー改革の中核へ
4 多元化社会の可能性ー地方政権に権力分散を
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